5月21日(金)
中間試験の中休みを利用して4回目の東海道歩きです。今日は平日なので、通学、通勤の人たちがせわしなく乗り降りする中を、一人窓外を見ながらぼんやりしているおやじの姿はどう映っているのだろうと思いながら電車に揺られていました。朝早くはまだ長袖が必要と思い家を出たのですが、平塚に着くころは日も高くなり、半袖一枚で十分な陽気です。確実に夏が近づいています。
平塚
駅を出てすぐに東海道はあるのですが、昔の面影はどこにもありません。少し外れた所に怪談「番町皿屋敷」のお菊さんの塚があります。
元は、お菊さん、平塚の宿場役人の娘で、行儀奉公に江戸に出て、無実の罪で井戸に投げ込まれたそうで、遺骸は平塚に戻され、葬られたということです。
消防小屋の建物はちょっといなせな建物です。
しばらく行くと宿場の京見付があります。つまり、宿場の西のはずれです。こんもりとした石垣が復元されていて、平塚ではこれぐらいしか残っていませんでした。
高麗山(こまやま)
平塚のシンボルです。むかし、渡来人がこの辺りに住み着いて故郷を懐かしんだそうです。これを越えると大磯です。
化粧坂(けはいさか)
松並木が残っています。車はほとんど通らない、地元の人たちの自由通路のような感じです。大磯には「虎御前」という人の伝説が多く残ります。その虎御前ゆかりの坂です。近くの民家の玄関先にはゆかりの井戸も残っています。
そろそろ夏の花の季節です。
大磯
東海道の宿場と宿場の間隔はまちまちで、平塚~大磯間は歩いても1時間とかかりません。大磯はあまり大きな宿場ではなかったようですが、それでも見るものは多く残っています。
虎御前
「曽我兄弟の仇討ち」の兄曽我十郎の思い人で、この地の豪族の娘であった「虎御前」はあちらこちらに伝説として残っています。街道にはゆかりのお寺もあり、事細かな説明看板もあります。
新杵
大磯で最も有名なお菓子屋さん。吉田茂も散歩の途中に立ち寄り、框に腰かけお茶を飲んだというお店です。名物は「虎子まんじゅう」と「西行まんじゅう」です。
かまぼこ屋が増えてきました。
鴫立庵(しぎたつあん)
「こころなき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」と西行法師が詠んだ「三夕の歌」のひとつ。鴫立つ沢はここにありました。江戸時代になり芭蕉や多くの俳人がこの地を訪れ、庵を建てたのが「鴫立庵」です。俳句の三大道場として知られている所が、旧街道のすぐ横にあります。しばし荷物を降ろして沢の音に聞き入っていました。
道祖神もだいぶ素朴な雰囲気になってきました。
大磯は明治時代から名のある人たちの別荘が集まっていたところです。鴫立庵の近くには島崎藤村終焉の地が、その先には伊藤博文や吉田茂の旧宅がありました。湘南の海は心を休めるにはうってつけだったのかもしれません。
その昔、夏恒例の「芸能人水泳大会」の会場だったのが大磯ロングビーチです。当時はあこがれの「流れるプール」があったところです。看板に懐かしさが漂っています。
道路標識にも静岡の文字が見られるようになりました。それでもまだ100キロ以上あります。気が遠くなります。
二宮
街道沿いには歴史を感じさせる建物が少し残っていますが、史跡として保存されているようなものはあまり見当たりません。
東京を出てから初めてだと思いますが、やっと海が開けたところに出ました。すぐそこに小田原市街が見え、その向こうには箱根が立ちふさがっています。待ってろよ箱根!
小田原
江戸時代、箱根越えを控えて、ここで英気を養うために多くの旅籠や商店で大変な賑わいだったそうです。もともと北条氏の城下町として発展し、東海道も城を回り込むように曲がっています。現在は多くのかまぼこ屋が並ぶ通りもあり、町名にも昔の名残を感じます。
「お猿のかごや」に出てくる小田原提灯はこんな形です。
今日はまちかど交流館で一休みしてから帰ります。
この区間は、文学にゆかりの史跡もあり、知らないことが多いと痛感しました。
次回はいよいよ箱根越えです。
(つづく)
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