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2022年6月20日月曜日

泉鏡花「歌行燈」

 

いかに自分が不勉強な教員であったかを告白するような話ですが、「歌行燈」という小説があることなんて、おそらくこれまで何十年も知らないまま生きてきました。「おそらく」と書いたのは、もしかしたら何かでいったんは覚えたものの、長い間に忘れてしまったという可能性もあるかもしれないと、わずかな期待を込めてのことです。「泉鏡花 高野聖」という組み合わせくらいは知っていても、読んだこともなければ、いつかは読んでみたいとも思わずに来ました。

それがまったく違う方向から、泉鏡花の「歌行燈」を読むことになったという話題です。しばらくお付き合いください。

 

昨年の12月。名古屋に行ったとき、名古屋駅近くのビルの中にセルフのうどん屋さんがあって入ってみました。屋号は横井製麺所。丸亀ナントカなら知っているけど、こんな屋号は初めてだな、中部圏ではメジャーなのかなと検索をかけてみると、桑名で明治10年に開業した歴史ある饂飩屋さんが展開している飲食店チャンネルのひとつであることがわかりました。志満やという屋号の饂飩屋は、後に泉鏡花の小説「歌行燈」に登場する饂飩屋のモデルになったらしく、その縁から屋号を「歌行燈」に変えた。そんなことがわかってきました。

桑名へ行って歌行燈でうどんを食べてみたい。そのためには、小説を読まねばならないと、自分の中でささやかな目標ができた2021年の末でした。

ありがたいことに、小説は本屋に行かなくても「あおぞら文庫」で読めます。そんなに長い小説ではないものの、これを解説なしに読むのは少々難しい。最後まで文字を追うのが精一杯で、恥ずかしいことですがさっぱり理解できません。いい先生はいないものかと見つけたのがこのサイト。これで、ようやっとわかったつもりで本文を追うことができました。そのあと、『東海道中膝栗毛』の中の、宮から桑名、さらに四日市までを現代語訳で読んで、もう一度「歌行燈」を読み直す。メキメキ自分に読解力がついたような錯覚に陥ります。しかし、能についての教養がないので、素通りしていることがたくさんあるんだろうなと思っています。

一応予習完了となり、紫陽花が色づき始めたころ、桑名へ行きました。 「そうはくわなの焼き蛤」という言葉は何十年も前から知っていても、桑名というところには「近鉄電車で行ったら名古屋のちょっと手前くらい」の認識しかなかったのです。

 歌行燈というお店でうどんを食べたい。かつての美濃街道を海のほうへ歩いて行けば突き当りがかつての東海道らしい。このブログでも、大坪さんの「東海道を歩く」という記事がありますが、ここを通っているはずです。突き当りから右に二軒目に「歌行燈」本店がありました。店頭は紫陽花で飾られている。海沿いの町でよく見かける板塀の小さなお店。お昼まであと少し。店に入ってみると3組くらいの客が待っています。自分の名前を書いていったんお店から出てみると、掛行燈にはまだ「志満や」の屋号が残されています。小説では、饂飩屋として恩田喜多八が自分の過去を語るお店です。 

 お店は落ち着いた雰囲気です。歌行燈御膳と、焼き蛤を注文しました。うどんは少しやわらかめ。うどんに乗っていた蛤も、天ぷらの蛤もおいしい。総じてダシがうまい。そして雰囲気や味の割には値段が手ごろに思います。ただ、このお店の焼き蛤は蒸し蛤でした。ふっくらと蒸し上がった蛤はとてもおいしかったけれど、弥次さん喜多さんでは松笠で焼くように書かれています。焼いたらどんな味が楽しめるんでしょうね。ランチも夜のメニューも宴会メニューもあります。次回チャンスがあれば桑名で泊まって、このお店で一杯飲んでみたいものだと思いました。

  


   歌行燈という屋号のお店から北へ150mほど歩くと、船津屋。今は「ザ フナツヤ」という屋号で結婚式場になっているのですが、昔は船津屋という料亭旅館だったようで、外見は今も料亭のような雰囲気です。ここが、小説中の「湊屋」のモデルだという話です。その「ザ フナツヤ」の勝手口?から出てきた女性が、私のような怪しげな者に、「こんにちは」と挨拶してくださる。うれしいできごとでした。だって、どう見ても結婚式場に用事がありそうな風体ではないもの。

ザ フナツヤの塀には説明書きが書かれています。つまんで記すと次のようになるでしょうか。

 

・泉鏡花は高等小学校での講演のため、明治42(1909)年に桑名にやってきて、この船津屋に宿泊し、その時の印象で「歌行燈」を書いた。

・小説はその翌年一月号の「新小説」で発表された。

・劇作家・久保田万太郎は戯曲「歌行燈」執筆のために三ヶ月ほど船津屋に逗留した。

・久保田万太郎の句碑が置かれていて、その説明が書かれていること。

・その句は…、

   かはをそに 火をぬすまれて あけやすき

・この句は万太郎が、船津屋主人の求めに応じて詠んだ。

・この句碑は杉本健吉がデザインした。

 

この船津屋は、江戸時代には大塚本陣があった場所だそうです。小説では、恩地源三郎と辺見秀乃進が宿泊して、芸者お三重に出会うのが湊屋(船津屋)です。揖斐川の堤防から「ザ フナツヤ」を眺めてみると、確かに近い。水辺のかわうそが悪さをしても不思議ではないと思いました。

ついでに船津屋の右隣、今は営業されていないようですが、「山月」は、脇本陣駿河屋の跡地らしいです。お城にも近く、きっと桑名の一等地だったに違いありません。

(hill)