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2016年5月14日土曜日

天理軽便鉄道



 グーグルマップで市町村名を入れて検索をかけると、そのエリアだけ色が変わって当該のエリアが視覚的にわかるようになっていますね。とてもありがたい。
 「奈良県安堵町」で検索をかけると、町の真ん中を北西から南東へ西名阪自動車道が貫通していますが、ICはないことがわかります。法隆寺ICと大和まほろばスマートICに挟まれるように安堵町があります。町内にICはないけれど、西行だろうが東行だろうが隣町へ出た所にICがあるという便利さです。鉄道はというと、JR関西線(大和路線)の線路は二か所に渡って安堵町を通っているのに町内に駅はありません。しかし、これもIC同様に隣町へ出たすぐのところに法隆寺駅と大和小泉駅があります。町内にICも駅もないけれど、決して不便ではない町というくくり方ができましょうか。


 その安堵町にかつては駅があったそうです。今から100年とほんの少し前の19152月に、天理軽便鉄道が法隆寺-平端-天理間で開業しました。法隆寺-天理間9.0km34分で結び、運賃18銭。開業から3日間は祝いとして「半賃」の9銭だったそうです。優雅な時代ですね。法隆寺駅はJR法隆寺駅のすぐ南、平端駅はほぼ今の近鉄橿原線平端駅。開業時は法隆寺駅を出た次の駅は額田部(現大和郡山市)だったので、当時の安堵村は現在同様に線路が通過するだけの村だったのですが、開業から1年たった19163月に安堵駅が開業し村内に駅ができました(のちに大和安堵駅に改称)。したがって、今年は安堵駅誕生100年というわけです。
JR法隆寺駅の南側に残るレンガの遺構。天理軽便鉄道のものだそうです。

 1910年に軽便鉄道法がつくられて、全国のあちらこちらに鉄道がつくられるようになるのですが、奈良県内でも初瀬軌道(桜井-長谷間5.4km)、吉野軽便鉄道(吉野口-六田11.5km)、大和鉄道(新王寺-田原本-桜井10.1km+7.1km)、生駒鋼索鉄道(鳥居前-生駒山上1.0km+1.1km)が次々と開業していった中の天理軽便鉄道でした。面白いことに、これらの鉄道の軌間(レール間の幅)は、762mmの天理軽便鉄道を除いては1067mmで今のJR在来線と同じです。軽便鉄道という言葉に惑わされてナローゲージ(1067mmよりも狭い)だと思い込んではいけませんね。軽便鉄道法は軌間については定めがないのだそうです。そして当時の鉄道はどんな客を運ぶために敷設されたか。すべてお参りのためだとわかります。長谷寺、吉野、生駒の聖天さん。天理軽便鉄道も大阪から天理教へ向かう人たちをターゲットにしていました。鉄道が通勤や通学といった日常的な手段で使われる時代ではなかったのでしょう。鉄道に乗ることイコール神仏に手を合わせに行くこと。背筋を伸ばしてお参りする、神仏への階段のような乗り物だったと考えるべきかもしれません。
JR大和路線と並行する盛り土。畑になっている部分はかつてのレール跡だということです。

 阪急グループの創始者、小林一三は、「乗客は電車が創造する」と言ったそうです。彼が鉄道と宅地開発・分譲をワンセットで売り込む商法を箕面有馬電気鉄道(のちの阪急電鉄)で始めたのが1910年。日常生活に鉄道を利用するのは、大阪の郊外でやっと始まったばかりと考えられましょう。
 安堵村のほうでは鉄道が通り、駅も作られてめでたしめでたしのはずだったのですが、1920年に天理軽便鉄道は大阪電気軌道(大軌。現在の近鉄)に買収されています。6年弱で天理軽便鉄道という名は消えてしまったのです。そして、19233月に大軌が大和西大寺-橿原神宮前を開業、そのため法隆寺-天理間は線路が平端で分断されることになります。西宮北口で分断された阪急今津線みたいなものですね。そして、天理教への参拝も大軌経由がメインになり、平端から天理までの現近鉄天理線部分はいいとしても、法隆寺-平端間は参拝客も乗らずお荷物になるだけで1945年に運行停止。ちょうど軽便鉄道として開業してから30年、安堵駅の開業から29年弱の寿命でした。 その後1952年に廃止。
法隆寺自動車学校北側の池の中に堤あり。この堤に線路が走っていたらしい。レンガもそのまま残っています。


 上に記した奈良県内の鉄道で現在なくなっているのは、天理軽便鉄道の法隆寺-平端間だけです。安堵村にとっての不幸は、奈良盆地の中央部は鉄道の発達が遅れたこと、そして現在の近鉄橿原線の開業で線路が分断されたこと、信仰に関わる乗客に縁の薄かったこの区間が戦争というきっかけで休止に追いやられたことでしょうか。
安堵駐在所。大和安堵駅がこの辺りにあったそうです。
 安堵村に鉄道の駅ができて今年で、100年です。
 安堵町歴史民俗資料館へ行って勉強したことです。


(hill)

2016年5月4日水曜日

第21回研究会の日が決まりました


 

 今夏の研究会、第21回奈良大学国語教育研究会の日が決まりましたのでお知らせします。
 2016(平成28)年86日(土)です。詳細な情報は、決まり次第お知らせする予定です。まずは、みなさんのスケジュール帳へのご記入をお願いします。

2016年5月3日火曜日

河童の河次郎(かっぱのがじろう)




 兵庫県福崎町には、「遠野物語」で有名な民俗学者の柳田国男の生家があります。彼は方言周圏論を唱えた人です。水面に石を投げた時に水紋が周囲に広がっていくように、方言が周囲に広がっていくという考え方方言周圏論で、遠く離れた土地で同じ言葉が使われているのは、水紋の広がりのようなものだという論だと記憶しています。 

 その柳田国男の生家は見学できるようになっていて、隣には歴史民族資料館や松岡家記念館があります。 

 先日行ってみたら、そのすぐ隣の辻川山公園の池に、河童が出没するというのです。 
  駐車場にクルマを停めていたら、時間を追うごとに人が多くなっていく場所があるのに気づきました。もちろん、この時点で私は河童のことを知りません。何か面白いものがあるのかなと、その「人だかり」に行ってみたら、あるのは小さな池。みんなが水面を注目している。またスマホで撮影するがごとく水面を狙っている。しばらくすると歓声が上がって、人が散り散りになります。どうやら池には河童が生息していて、一定の時間になったら姿を見せるらしい。 
  そこで、人がいなくなった池の周囲で情報収集をしてみました。河童は河太郎(かたろう)と河次郎(がじろう)の二人?二匹いるらしい。兄の河太郎は池のほとりでじっと動かないのですが、河次郎は池の中に隠れていて一定の時間にならないと姿を見せない。その姿を見せる時間は、駐車場のトイレの前に表示している思わせぶりな。 

 で、姿が見える時間は毎時0分と30分らしい。うーん、これから30分も待てるか!でも30分に一度という設定は絶妙だなと思いました。10分や15分に一度ならありがたみに欠ける。1時間に一度なら待ちきれない。30分に一度なら、すぐ隣のもちむぎのやかた」で、名物のもちむぎ麺でも買って待っていようかと思う。
  20数分後、私は池のほとりにいたのでした。周囲に少しずつ人が増えてきます。その人たちの会話を聞いていると、河童は3度、水中から姿を見せるらしい。
 
 思わせぶりな泡がぶくぶくと上がってきて、河太郎が姿を見せました。なかなかの迫力です。水の濁りかたもそれらしい。

 偶然、楽しいものに会えました。  

(hill)