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2014年1月28日火曜日

タブレットを持って2



  恥ずかしい話をします。国語教員としてそれなりに長い間給料を貰っているのに、この教材だって何度もこなしているだろうにぜんぜん知らなかったという話です。白状します。
  そのタブレットを持って、「山月記」の授業の1時間目。タブレットでウィキペディアの中島敦のページを開いていました。正確にいうとページを開いたまま教室へ持って行きました。学校にWi-Fiが入ったといっても、Webの表示がそんなにサクサクというわけにはいきません。自分の買ったタブレットが値段相応であるせいか、電波そのものが微弱なせいかわかりませんが、表示させるページは予め開いておいたほうがいいようです。タブレットは、生徒に何かを見せるということと、自分の資料代わりに見るということの二通りの使いかたがあるわけですね。
  で、中島の短い生涯を説明するために、生まれたのが何年で…なんて画面を見ては板書していました。と、略歴で「1915 3 - 奈良県郡山町に移り住む。」という部分が目に入りました。中島敦が奈良県に暮らしていた時期がある?恥ずかしながら知らなかったのです。生徒には「もうちょっと調べるから」とその場を終えたのですが、本当にこのことは知らないまま現在までいたわけです。

  職員室へ帰って、本当かなと指導書を開いてみると、確かに同じように書かれている。指導書を隅々まで目を通していない日頃の姿勢が見えてきました。検索をかけてもあまり、記事数はありませんが、「中島敦の青春」というページに、


(淳の父である)田人は、息子を埼玉県久喜市に住んでいる祖父母に預けて、奈良県郡山中学校に転勤する。
 6才になった中島敦は、小学校に入学するため父の任地の郡山に移ることになる。

と書かれていました。敦の父は漢文の教員だったそうです(漢学者の家系だとは知っていたのですが…)。郡山中学校とは、今の郡山高校ですね。
  さらに検索では、大和郡山市長が議会の答弁で中島敦について触れている記録も見つかりました。平成21年第2回大和郡山市議会定例会会議録(第3号)というページに、


『山月記』という小説を書いた中島敦という、生誕 100年なんですけれども、郡山にゆかりがあるという記憶がありまして調べていたところ、小学校をここ郡山で過ごしているんですね。父親が郡中の漢文の教員だったということで…


と答えている記録があります。
  次の時間、このふたつのページを開いたままタブレットをもって行き、教室で話したわけですが、長い間奈良県に住まいしていてこんな状況でした。
  タブレットを買ったことで、今さらではありますが私はひとつ賢くなり、ついでに恥ずかしい思いもひとつしたというお話でした。
hill

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