とにかくやたらに「紙」が多い。その「紙」を処分するだけでも何日もかかる。ところが、最近「電子化」が進み、紙媒体からパソコン保存が多くなった。指導要録や成績表、出席簿にいたるまでパソコン処理で、実際に「書く」という作業がぐんと減った。当然、その作業に費やす時間も減り、少しばかり「ヒマ」ができた。「窓際」での生活を送っているからそう感じるのかもしれないが、この時期やたらに有休の消化にいそしむ先生方も多くなっている。時代の流れになかなか付いて行けなくなっている自分を確認するために、アナログへアナログへと向かう衝動はどうにも抑えられなくなっている。
静岡というところは、旧東海道の中間に位置し、昔からモノや文化が通り過ぎてゆくところで、この地に根差した独特の文化がなかなか根付かない土地柄。良く言えば流行に敏感であり、悪く言えば日和見主義の気骨なしということになる。
ところが、東海道を歩こうとすると、実に都合がいい。忙しい現代人に東京、京都間を歩こうと思うと約2週間もまとめて休みを取ることは不可能に近い。退職を待つか、入院すると言って嘘をつくか。休みごとに日帰りで行ったり来たりを繰り返しながら歩くとなると、静岡はかなりいい場所なのだ。歩くだけなのだから、さほど財布にも響かない。余計なところに金を遣いたくないから、新幹線は極力使いたくない。
それができるのがこの静岡。これは歩いてみるべきなのだ。ただそれだけの理由。
3月15日(日)
旅立ち
早朝6時前に家を出発し、9時ごろ東京日本橋からのスタートをめざす。3月中旬にしては寒く、天気も良くない。昔の旅人なら「七つ立ち」というから、午前4時ごろ出発したらしい。それから比べるとかなり遅いので、どこまで歩けるかはわからない。
昔の日本橋は旅立ちにはいいところだったのだろうが、今は頭上を高速道路が走り、「麒麟の翼」も羽をちぢこませているように見える。そういえば、昨晩、テレビでやってたなあ、「麒麟の翼」。
日本橋からまっすぐに走っている道路は、当然、「国道1号線」だと思っていた。しかし、実際には「国道15号線」いわゆる銀座中央通り。さすがにこの時間では、銀座も人影が少ない。
京橋の橋にあった石柱のあと。立派な擬宝珠がついている。この辺りから「銀座」の看板が目に付くようになる。
銀座4丁目交差点
和光の時計台とアンパンの木村屋
この辺りが地価日本一。
「東京銀座資生堂」という響がなんともおしゃれに聞こえた子供時代。ここのパーラーでお茶ができるようになったら一人前。
銀座の柳
銀座には何回も来ていても、お目にかかるのは今日がはじめて。ここからは新橋。
新橋駅を過ぎると人通りはさらに少なくなる。周りはオフィス街。平日はサラリーマンでごった返すが、日曜日の朝は誰もいません。箱根駅伝も最近はこの辺りは走らないらしい。
1本内寄りの「第二京浜」を走る。これが国道1号線
いま歩いているのは「第一京浜」国道15号線
しばらくはこのまま進む。
浜松町
東京タワーも増上寺もビルに隠れてなかなか見えない。昭和、平成と日々変化している都会の顔。
高輪大木戸跡
ここまでが江戸。日没にここの木戸を閉めて、不審者の侵入を防いだところ。新宿にも同じような木戸があったらしいが、現在跡はない。江戸と郊外との境界を示す数少ない遺構。この辺りは第一京浜の歩道を歩くことになる。
八山橋
箱根駅伝でもおなじみのポイント。ここで旧品川宿の街道に入る。
品川宿
一番目の宿場町。建物は新しくなってしまったが、旧街道がはっきりとわかる形で商店街が残っている。街道に入ってすぐのところに観光案内所があり、といっても酒屋におばちゃんが座っているだけだが、温かいもてなしをうける。
やはり下町。人情豊かだ。この町の「草餅」はクワイの形をしている。ギョウザみたいな形。所々には古いお寺や神社が残っており、空襲にも耐えた歴史を感じる。
品川神社
ここには富士塚が残り、富士山に行けなかった人たちが、ここの塚に登り、実際に
富士山に登った代わりとした。
鈴ヶ森刑場跡
品川宿のはずれに川が流れている。この川に架かる橋をむかし、「涙橋」といった。鈴ヶ森で受刑される罪人と、家族との別れの橋。橋から100メートルほど先、第一京浜との合流地点が刑場跡。寒空に悲哀が感じられる。何か写ってはいけないものが見えるような・・・。
蒲田の踏切 以前は箱根駅伝でランナーが走ってくると、突然遮断機が下りて後方との時間差が一気に縮まり、泣くに泣けない魔の踏切と言われたところ。現在は京浜急行が高架になり、ランナーも一安心。
大森宿
大森貝塚が発見された場所。ここにも旧街道に沿って商店街がある。さすがに江戸前を感じさせる海苔問屋や廻船問屋の看板が。品川からずっと、旧街道の左手はすぐ海だったのだから無理もない。山手線ともここでお別れ。してみると京浜急行はほとんど東海道に沿って南下しているということになる。次第に「六郷」の文字が見えるようになる。「六郷川」は「多摩川」のこと。東京脱出も近い。
六郷神社
多摩川のほとりに立つ。地元の人たちが、川の安全を祈願した社。結構立派なのに驚いた。境内の一隅に古い六郷橋の遺構が移されていた。一度は橋が架けられたが、流され、以後は渡しとなったらしい。明治になってから橋が架けられた。
多摩川
東京都から神奈川県に。昔は「六郷川」と言われた。名残なのか、橋は今でも「六郷橋」向かい風の中を必死で走るランナーたちの姿が目に浮かぶ。「さらさら、さらさら」と口ずさみながら渡る。万葉の古歌に詠まれたところでボールを飛ばす人たち。草野球。ジョギング。川に入り、布をさらす人の姿は見られなかった。砧を打った「砧」はこれより上流。「にこたま」はさらに上流。
川崎宿
六郷橋を渡ってすぐに右に折れると旧東海道の川崎宿。さすがになーんにも残っていません。町を歩く人の波に押されてひとりだけリュックを担ぐ姿は異様ですらある。それほどに町であり、言われなければここに昔宿場があったことなどわからない。品川や大森に見た商店街の人情も感じられない。通りの真ん中に突如「東海道交流館」なるものが。立派な建物で、中はジオラマや解説がいっぱい。時間があればゆっくり見たかったが、午後も3時をまわり、先を急ぎたいのでかーるく拝見して次を目指す。
鶴見
そろそろ日が傾き、寒くなってきたので家路につくことにする。旧東海道で、JR東海道線に近い駅をさがすと鶴見が一番近い。ちょうど箱根駅伝でも最初の中継地点。約20キロといったところか。昔の人なら神奈川宿か戸塚宿まで行けたそうだが、物見遊山の見物も加わり、この辺が限度か。それにしても大分足も痛くなってきている。足回りはしっかりとして出てきたはずだが、歳なのか運動不足なのか。今日はここまでと電車に乗った。最近、旅行社でも東海道を歩くツアーがあるらしい。品川宿でも団体さんに出会ったが、京都まで歩こうとしている人とは会わなかった。
この先、どのような旅になるのか、わからない。
(つづく)
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