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2015年6月25日木曜日

間口





 誰でもよく知っている「間口」という言葉。建物などの正面の幅のことですよね。また、研究・事業などの領域という意味でも使います。「あの人は間口が広い」などと使います。
 先日、妙な「間口」に出会いました。俳句指導のの授業実践レポートを読んでいました。この学校はどれくらいの生徒がいるのだろうと疑問をもって、学校のサイトを検索してみました。ふつう、全校生徒が何名だとか、クラス数がいくつでというような情報はすぐ見つかると思うのですが、あちらこちらを見ても明らかにされていない。仕方なく、校長先生の挨拶文を読んでみました。
 すると妙な表現が…
「1間口が増設され4間口の中規模校となりました。」
 間口ってもしかしたらクラスのことではないだろうか、と腕組みをして考えたのでした。
 そこで、間口の意味を検索してみましたが、クラスだとか教室を表すという説明は見つかりません。ではと、「クラス 間口」で検索をかけてみる。すると、北海道で学級数のことを指すお役所言葉だというような説明に当たりました。マスコミでも当然のように使うのだそうです。面白いことに、高校では使うけれども小中ではそうは言わないのだそうです。クラス数とはいえど、入学定員という側面を持っているのでしょうか。
 では、「北海道 間口」で検索をかけてみると、出てくる出てくる。
「全日制課程農業科、畜産科各1間口」

「○○高等学校2間口復活」

「北海道教育委員会が公表した『公立高等学校配置計画案』において、○○高等学校の平成28年度における間口数が、4間口に復活となりました。」これはある市の教育委員会のページにあった表記です。
 私たちには意外ですが、北海道では当たり前に使われている「間口」なのですね。
 そこでウィキペディアの「間口」を開いてみます。4つめの意味として、「北海道において学級数を指す言葉。(例:8クラス⇒8間口)」とありました。

(hill)

2015年6月22日月曜日

特命を受けて、20回記念冊子、「寄せ書き」の原稿を依頼に…




         831023 尾形恭明


20回記念冊子、「寄せ書き」の原稿。
Mさんには尾形さんから依頼してください」
会長からの特命です。
研究会初期メンバーの御一人であるM先輩。
PC無し…… 携帯無し…… 固定電話の番号不明……。
手がかりは住所のみです。

自宅からバイクで約15分。
川沿いに立つマンションに到着しました。
棟まではわかりましたが、部屋番号がわかりません。
表札、ポストにも名前は無し。
管理人室を訪ねたところ、
「住人の部屋は教えることができません」
個人情報保護の壁が
数軒尋ねてみましたが、皆さんわからずコッチはコッチで「管理人室で聞いてみては?」のお答。
仕方なく再度、管理人室へ!
わたし:「住人の方に聞いても、管理人さんに聞いてって言われたんですけど…」
管理人さん:「ここでは、教えることはできません」
わたし:「大学の先輩に大切な用件を伝えたいですけど…」
管理人さん:「何度言われても、教えることはできません」
う~ん…… もうアカンか?
わたし:「わかりました! 先輩を尋ねてきた後輩にそのまま帰れって言うことやね!」
管理人さん:「………」
わたし:「もう帰りますわ!」
管理人さん:「…… 一回確認してみます」
管理人さんがどこかに電話をしています。
そして私に向かって、
管理人さん:「あなた、名前なんて言うの?」
わたし:「オガタ…… 奈良大学のオガタ!」
電話で再びやり取りしていた管理人さんが、
「今からここに来るって言うてますわ!」


職務に忠実なんはエエけど、
最初から、そうして~ (; ̄д ̄)


尾形さん、お仕事お疲れさまでした。

2015年6月21日日曜日

20回記念冊子への寄せ書きをお願いします

 今年、研究会が20回目を迎えるのを記念して冊子を作る予定で進んでいます。
 研究会に参加した経験のある方に「寄せ書き」募集したいと考えています。
 ぜひとも、冊子にご参加ください。
16回研究会(2011年8月)の写真です


1 文字数など
 本文30字×8行=240字上限 ほかにタイトル、氏名、現在の所属

2 内容
 研究会参加の思い出/研究会に期待すること/国語という教科の楽しみ/教員への憧れ/国文学科時代の思い出
 など国語教育研究会の冊子の話題になるもの。

3 提出先
 nukokugokyoikuアットマークgmail.com(アットマークを変更してください)
 締切 7月10日

4 その他
 国語教育研究会の仲間で、現在、事務局から連絡の届いていない方をご存知でしたら教えてください
 研究会の参加申し込みも、7月10日です。お忘れないようにお願いします。

 どうぞ、よろしくお願いします。
(岡部秀樹)

2015年6月8日月曜日

東海道を歩く (4)平塚~小田原    大坪正和

                                                                5月21日(金)
 中間試験の中休みを利用して4回目の東海道歩きです。
  今日は平日なので、通学、通勤の人たちがせわしなく乗り降りする中を、一人窓外を見ながらぼんやりしているおやじの姿はどう映っているのだろうと思いながら電車に揺られていました。朝早くはまだ長袖が必要と思い家を出たのですが、平塚に着くころは日も高くなり、半袖一枚で十分な陽気です。確実に夏が近づいています。


平塚

  駅を出てすぐに東海道はあるのですが、昔の面影はどこにもありません。少し外れた所に怪談「番町皿屋敷」のお菊さんの塚があります。
   元は、お菊さん、平塚の宿場役人の娘で、行儀奉公に江戸に出て、無実の罪で井戸に投げ込まれたそうで、遺骸は平塚に戻され、葬られたということです。
 消防小屋の建物はちょっといなせな建物です。
 しばらく行くと宿場の京見付があります。つまり、宿場の西のはずれです。こんもりとした石垣が復元されていて、平塚ではこれぐらいしか残っていませんでした。


高麗山(こまやま)

   平塚のシンボルです。むかし、渡来人がこの辺りに住み着いて故郷を懐かしんだそうです。これを越えると大磯です。

化粧坂(けはいさか)

   松並木が残っています。車はほとんど通らない、地元の人たちの自由通路のような感じです。大磯には「虎御前」という人の伝説が多く残ります。その虎御前ゆかりの坂です。近くの民家の玄関先にはゆかりの井戸も残っています。
   そろそろ夏の花の季節です。

大磯
 東海道の宿場と宿場の間隔はまちまちで、平塚~大磯間は歩いても1時間とかかりません。大磯はあまり大きな宿場ではなかったようですが、それでも見るものは多く残っています。


虎御前

   「曽我兄弟の仇討ち」の兄曽我十郎の思い人で、この地の豪族の娘であった「虎御前」はあちらこちらに伝説として残っています。街道にはゆかりのお寺もあり、事細かな説明看板もあります。

新杵

   大磯で最も有名なお菓子屋さん。吉田茂も散歩の途中に立ち寄り、框に腰かけお茶を飲んだというお店です。名物は「虎子まんじゅう」と「西行まんじゅう」です。
   かまぼこ屋が増えてきました。

鴫立庵(しぎたつあん)

 「こころなき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮」と西行法師が詠んだ「三夕の歌」のひとつ。鴫立つ沢はここにありました。江戸時代になり芭蕉や多くの俳人がこの地を訪れ、庵を建てたのが「鴫立庵」です。俳句の三大道場として知られている所が、旧街道のすぐ横にあります。しばし荷物を降ろして沢の音に聞き入っていました。
 道祖神もだいぶ素朴な雰囲気になってきました。
 大磯は明治時代から名のある人たちの別荘が集まっていたところです。鴫立庵の近くには島崎藤村終焉の地が、その先には伊藤博文や吉田茂の旧宅がありました。湘南の海は心を休めるにはうってつけだったのかもしれません。
 その昔、夏恒例の「芸能人水泳大会」の会場だったのが大磯ロングビーチです。当時はあこがれの「流れるプール」があったところです。看板に懐かしさが漂っています。
 道路標識にも静岡の文字が見られるようになりました。それでもまだ100キロ以上あります。気が遠くなります。

 二宮
 街道沿いには歴史を感じさせる建物が少し残っていますが、史跡として保存されているようなものはあまり見当たりません。

   東京を出てから初めてだと思いますが、やっと海が開けたところに出ました。すぐそこに小田原市街が見え、その向こうには箱根が立ちふさがっています。待ってろよ箱根!

 小田原

   江戸時代、箱根越えを控えて、ここで英気を養うために多くの旅籠や商店で大変な賑わいだったそうです。もともと北条氏の城下町として発展し、東海道も城を回り込むように曲がっています。現在は多くのかまぼこ屋が並ぶ通りもあり、町名にも昔の名残を感じます。
  「お猿のかごや」に出てくる小田原提灯はこんな形です。 
  今日はまちかど交流館で一休みしてから帰ります。
  この区間は、文学にゆかりの史跡もあり、知らないことが多いと痛感しました。

  次回はいよいよ箱根越えです。



 (つづく)