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2015年8月18日火曜日

東海道を歩く (8)吉原~蒲原    大坪正和


7月25日(土)
 梅雨が明けると同時に猛暑がやってきました。一日中外を歩くには過酷な天気が続いています。しかも、今回の区間はほとんど日陰がありません。昔はこんなに暑くはなかったと思いますが、日陰はなお一層少なかったと思われます。スポーツドリンクもなく、行き倒れになる人も多かったでしょう。

 吉原

現在は製紙の町として多くの工場が立っています。近くにある田子の浦港は昭和50年代、ヘドロ公害で全国に悪名を轟かせました。現在はすっかりきれいになり、製紙会社の煙突も大分減ってしまい、さびれてきています。この辺りは富士山の伏流水による幾筋もの川が集まってきていて、旧東海道は北に大きく迂回しています。昔は広大な沼地だったらしく、そのまま西には行けなかったのでしょう。その名残か、JR吉原駅を出てすぐに「沼橋」を渡ります。

 左富士

北に迂回することにより、東海道には一つの名物ができました。それが「左富士」です。京に向かって富士山はほとんど右手に見えますが、茅ヶ崎とここだけは左手に見え、松並木越しに見える左富士は、旅人にとっても楽しみな場所だったようです。暑さを避けるために、わざわざ曇りの日を選んで歩いているため、今日も富士山は雲の中です。今度、写真だけでも撮りにきます。

平家越え
 
 源平の合戦のおり、平家軍が水鳥の羽音に驚いて、戦わずして逃げ帰ったと言われている所です。現在の富士川は、もっとずっと西を流れていて、あまりピンときませんが、この辺りを歩いていると、川がどこを流れていても不思議はないと思えるくらい、清らかな流れが幾筋もあります。

 吉原宿

 ここは昔の宿場が、ほとんどそのまま現在の商店街になっています。
 「田子の月」は静岡では有名な和菓子屋さんです。
 富士山グッズ専門店もあります。
 最近の一押しは「つけナポリタン」です。私もまだ食べたことはありません。


 昔の旅籠は料理屋さんになっています。

 商店街を抜けると、道はかなりくねくね曲がって、大通りを斜めに横切ったりしながら西に向かいます。

庭にイグサを干している家がありました。珍しい光景でした。
  しばらく行くと、自転車に乗った見慣れたおじさんが笑顔で待っていました。校長がお出迎えしてくれました。姉妹校が富士宮にあり、私も4年間通った経験があります。そんなことで、この辺りには同僚、元同僚の家が点在しています。

鶴芝の碑

 伊勢物語にもあるように、富士の雪解け模様で季節を知ることはよくあったようです。この鶴芝の碑も、昔から富士に鶴の模様が出るというところから、地元の人たちに伝えられてきたということです。それだけ富士は雄大な裾野を広げているということでしょう。
 新しい道路ができると、旧道は分断されてしまう憂き目にあいます。

札ノ辻をへていよいよ富士川です。ここには渡船場とともに水神社があり、旅の安全を祈願したということです。今でも富士川は水量が多く流れも急なので、船といえども大変だったでしょう。実際、東海道も何回も氾濫に遭い道を変えています。江戸時代後期の東海道はこれから山道になります。





 常盤家

 
 蒲原までの間、宿場はありませんでしたので、大名などは富士川を渡ったところで休憩をしたそうです。また、ここはそのまま北に上り、身延詣での休憩地点でもあったようです。その名残の旧家です。実はこのお宅、女優の常盤貴子さんのお父様の実家です。いかにも江戸時代から続く名家のお嬢様という雰囲気です。ただ、生徒に聞いたら、「誰それ?」ですって。

 一里塚

 ここの一里塚は、はっきりと残っています。これほど江戸時代の形をとどめる塚はめったに見ません。

 峠を越えて蒲原宿に入ってきました。ここは昔の宿場町の風情を大切に残している所として知られています。広重の浮世絵では、「雪の蒲原」が描かれ、切手にもなっています。
宿場の入り口だけ楽しんで、続きは次回のお楽しみにします。

 

(つづく)

2015年8月7日金曜日

東海道を歩く (7)沼津~吉原    大坪正和

6月20日(土)
 梅雨の中休みの土曜日、この時期にしては涼しさを感じる日が続いています。富士山のすぐ近くを歩くのにあまり天気がいいとは言えませんが、このあとは確実に暑くなります。今のうちに少しでも先に進んでおきたいので、出かけることにします。一応、「地元」とも言えるところなので、吉原まで車で行き、吉原から沼津まで電車で行きます。沼津~吉原を歩いて車で帰ってきます。当分の間、このパターンにしてなるべく時間の制約を受けないようにします。

 沼津
 沼津城は狩野川の河口に沿って建てられていました。港湾設備や物資の運搬にも便利な立地だったのでしょう。かなり繁栄していたようで、明治初期の写真も残っていました。
 商店のウインドウにも夏が近いことを知らせるポスターがありました。大祓(おおはらえ)の「わくぐりさん」です。この時期、あちらこちらの神社の夏祭りで行われます。みんなで、藁でできた大きな輪をくぐり、穢れを祓います。
 沼津は、城下町、宿場町としての面影はすっかりなくなってしまって、あまり見るべきものはありませんでした。所々に古い商家の店構えがかろうじて残るくらいです。

乗運寺
  若山牧水ゆかりの寺です。牧水が愛した千本松原がすぐ近くにあり、松原の伐採計画に反対し、松原を守ったといいます。山門を入ってすぐの所に牧水の墓があります。きれいに整えられたお庭で休憩させていただきました。
 しばらく行くと大通りから別れて旧道に入ります。この辺りは、道路を一筋外れるとほとんど田んぼや畑だけで、富士山もきれいに見えるのですが、残念ながら今日も見えません。夏の間は一日中見えることはまれで、年間を通しても三分の一ほどしか見えないのだそうです。

 傍示杭
 旧沼津藩の領地を示す巨大な杭の跡です。下半分が折れて、なくなってしまっていますが、「従是東沼津領」とあったそうです。このあたり、千本松原にそって歩いているのですが、街道沿いの屋並みとその奥を通る旧国道1号線が邪魔してまったく見えません。

 原宿
 
   
  昔、「駿河の国に過ぎたるものが二つあり。富士のお山と、原の白隠。」と謳われた江戸中期の禅僧で、臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師の生まれた所です。日本各地に白隠さんが残した墨蹟や仏画が残っていて、独特な太い字体はご覧になった方もいらっしゃると思います。また、難しい教えを庶民にも理解してもらえるようユーモラスな仏画や達磨の絵などを描き、教えを広めた人です。私たちは親しみを込めて、「白隠さん」と呼びます。とはいえ、ここは静岡県東部で、私が住む中部の人たちには知らない人が多いのが残念です。原宿は、白隠さんにゆかりの所しかありません。こぢんまりした宿場です。
   この日のお土産は、地酒の「白隠正宗」にしました。
 旧街道を思い起こさせる旧家の屋号を見ました。
 確かに海岸沿いを歩いている証でしょう。「海岸寺」です。
 本当は雄大な富士が見えるのだけれどなあ。
 間宿の柏原です。屋号を示す看板ぐらいしかありません。
 富士毘沙門天です。この辺りではけっこう有名な所で、達磨市は毎年ニュースになります。毘沙門天を過ぎるとJR吉原駅です。今日はここまでです。沼津からほぼまっすぐに歩いてきました。坂もなければなにもない。寄り道も少なかったので早々と帰ることにしました。しかも、車を置いてあるのでこれ以上は進めません。ではまた。
 
(つづく)

2015年8月5日水曜日

第20回奈良大学国語教育研究会報告(2)

 さて、夕暮れが近づくと、いつもと同じように懇親会です。

 いつもこの報告では「恒例の」と冠がつく近況報告ですが、今年は(1)でも記したように、ワークショップが盛り上がってしまい、開始時刻が18時を軽く回っていました。先ほどのワークショップで十分しゃべったでしょというわけで、懇親会から参加のメンバーだけが近況報告をすることになりました。


 展望ラウンジから南側に見える奈良盆地の景色も少しずつ青みが増し、やがて夜の景色に変わっていきます。この懇親会の楽しみは「展望」というだけあって、眺めです。

 特に、今年は81日。奈良大学から南側には第40回やまとの夏まつりの打ち上げ花火、また西方向には、生駒市総合公園で第14回いこまどんどこまつり納涼花火。どちらも20時から打ち上げです。花火が上がると、ラウンジの照明も落とされ、ちょっと研究会とは違う雰囲気になりました。


 飲みきれないくらいのお酒の差し入れもあり、終了予定の21時までにぎやかに楽しく懇親会は続いたのでした。
 
 また来年。みんなで集まってお勉強して、それから楽しい時間を過ごそうね。みんながそう約束してお開きになったのでした。


(hill)


2015年8月4日火曜日

第20回奈良大学国語教育研究会報告(1)


《日時・場所》 ◇ 201581日(土)13:00から
                         ◇  奈良大学 A4階 中会議室

《内容》    ◇ 開会の挨拶 会長 岡部秀樹(奈良県立大和中央高等学校)
        ◇ 20回記念講演
          「漱石先生、こんな『こころ』の読み方、いかがですか?」
                        奈良大学名誉教授  浅田 隆 先生
       ◇教育実践交流
         「教師の楽しみ~2年目までの実践と挑戦~」
                        奈良県立平城高等学校  八束 健太 さん
                ◇ワークショップ「国語授業の楽しみ」
                     進行 初代事務局長 棚橋 正人 さん 

 奈良大学国語教育研究会とは、この大学を卒業後国語科教員になった人たちを中心にして組織されている研究会です。国語科教員だけでなく、国語科教員を目指す大学生や、教員以外の仕事をしている人たち、さらには他大学の卒業生も集まる、層の広いとても不思議な(?)研究会です。
 今回は発足して21年、回数にして20回目の記念すべき研究会です。

 これまでの21年間をぎゅっとまとめた記念冊子が制作されました。参加者は30数名。おそらくこれまでの研究会で一番参加者が多かったのではないだろうかという感想もありました。

 その中での20回記念講演。講師の浅田隆先生からは、4月に3つの講演テーマをいただいていたのでした。「どれでも好きなのを選びなさい」と。このブログ上で投票を行いました。「あなたならどの話を聞きたいですか?」その結果、ダントツで票を集めたのが『こころ』でした。高校では『こころ』が定番教材として君臨しているわけですが、授業のヒントになる話題がごろごろしていた印象でした。
   教育実践交流は、大学を卒業して2年目の八束さんの奮闘記でした。悩みも取り混ぜての初々しい発表内容。私たちの年代の者にとっては、かつてそんなことで悩んだ時期もあったなという印象ですし、これから教員を目指そうとしている学生さんにとっては、非常に身近な話題だったのではないかと感じています。
 ワークショップは、昨年から始めた参加者全員が何かを話すコーナーです。棚橋さんの絶妙な進行に導かれて、スケッチブックに書き込んだキーワードをもとに、今年のお題「国語授業の楽しみ」について、それぞれが話します。教員の経験がある人は指導者側からの視点で、学生さんなどは、国語の授業が楽しいと思えるのはどんな時かという視点で、全員が話します。予定時間が大幅に超えてしまう盛り上がりぶりでした。みんな自分の思いを話したいのですね。


 エアコンの能力をはるかに超える参加者の熱気、熱く有意義な20回記念の研究会となりました。
(つづく)
 
 
(hill)
 

2015年8月1日土曜日

東海道を歩く (6)箱根~沼津    大坪正和

                                                                  6月8日(月)

 いつもの日課で4時半には目が覚めました。疲れはさほど残っていません。さすがは箱根の湯です。それにしても日曜日だったのに道路はガラガラ、観光客はぱらぱらでした。
 これでは地元の人たちは大変だろうと感じました。みなさん、箱根は大丈夫です。
 
 箱根神社

 
 昔、源頼朝が戦勝祈願をし、後に鎌倉幕府から庇護を受け、社領は遠く熱海の伊豆山神社と接していたといわれるほどの神社です。今では芦ノ湖に向かって建つ九頭龍神社が末社としてあり、ここが縁結びのパワースポットらしく、多くの参拝客でにぎわっています。もっとも、今は朝早いので誰もいません。静かで、神聖な雰囲気に包まれた朝の散歩です。
   いつもの歩きだしより早い8時には宿を出発し、三島を目指します。

 杉並木と関所


 箱根には杉並木がよく似合います。明らかに江戸時代から続く立派な並木です。関所の前に賽の河原があります。芦ノ湖の湖畔をあの世との境に見立てて、亡くなった人を弔ったのでしょう。それだけここは越えるのに難儀をしたところということです。
 関所はきれいに復元してあります。いつもは入館料を取る「関所」があるのですが、今日は朝早いということか、係りの人が「公道ですから」とタダで通してくれました。公道とは知りませんでしたが、言われてみれば旧東海道ですから。
 
 駅伝ゴール
 芦ノ湖の一番南のあたりと言えばいいのでしょうか、土産物などが途切れるところに駅伝のゴール地点があります。日本橋からここまで道は違っても駅伝を感じながら歩いてきたような気がします。「山の神」や「山の神童」たちが駆け上ったゴール地点を過ぎて、旧街道は続きます。ここから先は自分の感覚で一日に歩く距離を決めなければいけません。
 ちょっとだけ富士山が顔を出してくれました。
 
箱根峠
 標高846メートル地点です。東海道最高地点です。芦ノ湖からもまだ登ってきましたが、ここからは一気に下ります。そして、静岡県に入りました。ようこそ静岡へ。


 静岡県も石畳の道を復活させていますが、石が新しいのと、土が流れてしまっているので、かなり歩きづらい状況になっています。ここは杉並木ではなく、笹のトンネルです。
 
 接待茶屋と雲助
 東海道には多くの茶屋がありましたが、箱根山中には、ボランティアで旅人にお茶を出していた家もありました。今でも四国遍路やこの東海道でも、近所の人たちが「お茶でもどうぞ」と声をかけてくれます。これを「ご接待」と言います。ここは、明治末まで接待茶屋として旅人をもてなしていたということです。また、街道には荷物や人を運ぶ「雲助」と言われる人々がいました。この雲助は、よほどお酒が好きだったらしく、墓石がとっくりと盃の形をしています。さてさて、自分の墓石はどうしましょうか?
 
 山中城址
 北条氏の一番西の出城でしたが、秀次軍にあっけなく落とされてしまい、以来城址だけが残されました。近年の城ブームの中で、最もよく城郭が残されている山城として有名になり、日本の名城100選にも選ばれています。
 伊豆
 急坂を転ばないように下りてきました。遠くに伊豆半島の付け根が見えてきました。伊豆はその昔、南に浮かぶ島で、少しずつ本州に近づき、ぶつかって、押し続けて箱根ができたそうです。

 三島
 
 急坂を下り、お地蔵さんに手を合わせ、松並木や一里塚を見ながら三島の町に入ってきました。まずは、三島大社にお参りします。ここも源氏ゆかりの社です。大社のすぐ隣には、「三島暦の家」があります。以前、このブログで奈良町の暦の家が紹介されていたと思いますが、三島にも暦を作っていた家が保存されています。前年ながら、月曜日休館で中には入れませんでした。
 三島は「水の町」としても有名で、町の中いたるところにせせらぎがあり、子どもたちの遊び場や、貴重な生物たちの営みを支えています。南には、清流柿田川があり、豊かな湧き水に「三島梅花藻」が揺らいでいます。是非一度、三島を歩いてみてください。また、三島は湧き水を使って鰻の臭みを取り、鰻屋が多いのでも有名です。この旅で、初めてまともなお昼ご飯をいただくことにしました。鰻です。

 国境
 
 三島と沼津は、伊豆国と駿河国との国境でもあります。
  昔、三島の豊富な水を沼津に引くのに、「千貫樋」というものが作られたそうです。水は駿河の国を潤し、人々の生活を助けたそうです。そんな水道の跡が残っています。

 対面石

 源頼朝が挙兵した際、弟の義経が奥州から馳せ参じ、涙の対面を果たしたと伝わる石が八幡神社の裏手にひっそりと置かれていました。箱根や伊豆には、源氏ゆかりの遺跡が多く残ります。
 沼津
 静岡県東部の中心都市である沼津に入りました。沼津城を中心に発展した城下町ですが、現在は、城の面影もほとんどなく、中央公園に石碑が残るのみです。旧東海道も、城を巻くように海岸沿いへと続いて行きます。

(つづく)