6月8日(月)
いつもの日課で4時半には目が覚めました。疲れはさほど残っていません。さすがは箱根の湯です。それにしても日曜日だったのに道路はガラガラ、観光客はぱらぱらでした。
これでは地元の人たちは大変だろうと感じました。みなさん、箱根は大丈夫です。
昔、源頼朝が戦勝祈願をし、後に鎌倉幕府から庇護を受け、社領は遠く熱海の伊豆山神社と接していたといわれるほどの神社です。今では芦ノ湖に向かって建つ九頭龍神社が末社としてあり、ここが縁結びのパワースポットらしく、多くの参拝客でにぎわっています。もっとも、今は朝早いので誰もいません。静かで、神聖な雰囲気に包まれた朝の散歩です。
いつもの歩きだしより早い8時には宿を出発し、三島を目指します。
いつもの歩きだしより早い8時には宿を出発し、三島を目指します。
杉並木と関所
箱根には杉並木がよく似合います。明らかに江戸時代から続く立派な並木です。関所の前に賽の河原があります。芦ノ湖の湖畔をあの世との境に見立てて、亡くなった人を弔ったのでしょう。それだけここは越えるのに難儀をしたところということです。
関所はきれいに復元してあります。いつもは入館料を取る「関所」があるのですが、今日は朝早いということか、係りの人が「公道ですから」とタダで通してくれました。公道とは知りませんでしたが、言われてみれば旧東海道ですから。
駅伝ゴール
芦ノ湖の一番南のあたりと言えばいいのでしょうか、土産物などが途切れるところに駅伝のゴール地点があります。日本橋からここまで道は違っても駅伝を感じながら歩いてきたような気がします。「山の神」や「山の神童」たちが駆け上ったゴール地点を過ぎて、旧街道は続きます。ここから先は自分の感覚で一日に歩く距離を決めなければいけません。
芦ノ湖の一番南のあたりと言えばいいのでしょうか、土産物などが途切れるところに駅伝のゴール地点があります。日本橋からここまで道は違っても駅伝を感じながら歩いてきたような気がします。「山の神」や「山の神童」たちが駆け上ったゴール地点を過ぎて、旧街道は続きます。ここから先は自分の感覚で一日に歩く距離を決めなければいけません。
ちょっとだけ富士山が顔を出してくれました。
静岡県も石畳の道を復活させていますが、石が新しいのと、土が流れてしまっているので、かなり歩きづらい状況になっています。ここは杉並木ではなく、笹のトンネルです。
接待茶屋と雲助
東海道には多くの茶屋がありましたが、箱根山中には、ボランティアで旅人にお茶を出していた家もありました。今でも四国遍路やこの東海道でも、近所の人たちが「お茶でもどうぞ」と声をかけてくれます。これを「ご接待」と言います。ここは、明治末まで接待茶屋として旅人をもてなしていたということです。また、街道には荷物や人を運ぶ「雲助」と言われる人々がいました。この雲助は、よほどお酒が好きだったらしく、墓石がとっくりと盃の形をしています。さてさて、自分の墓石はどうしましょうか?
山中城址
北条氏の一番西の出城でしたが、秀次軍にあっけなく落とされてしまい、以来城址だけが残されました。近年の城ブームの中で、最もよく城郭が残されている山城として有名になり、日本の名城100選にも選ばれています。
急坂を下り、お地蔵さんに手を合わせ、松並木や一里塚を見ながら三島の町に入ってきました。まずは、三島大社にお参りします。ここも源氏ゆかりの社です。大社のすぐ隣には、「三島暦の家」があります。以前、このブログで奈良町の暦の家が紹介されていたと思いますが、三島にも暦を作っていた家が保存されています。前年ながら、月曜日休館で中には入れませんでした。
三島は「水の町」としても有名で、町の中いたるところにせせらぎがあり、子どもたちの遊び場や、貴重な生物たちの営みを支えています。南には、清流柿田川があり、豊かな湧き水に「三島梅花藻」が揺らいでいます。是非一度、三島を歩いてみてください。また、三島は湧き水を使って鰻の臭みを取り、鰻屋が多いのでも有名です。この旅で、初めてまともなお昼ご飯をいただくことにしました。鰻です。
三島と沼津は、伊豆国と駿河国との国境でもあります。
昔、三島の豊富な水を沼津に引くのに、「千貫樋」というものが作られたそうです。水は駿河の国を潤し、人々の生活を助けたそうです。そんな水道の跡が残っています。
昔、三島の豊富な水を沼津に引くのに、「千貫樋」というものが作られたそうです。水は駿河の国を潤し、人々の生活を助けたそうです。そんな水道の跡が残っています。
対面石
源頼朝が挙兵した際、弟の義経が奥州から馳せ参じ、涙の対面を果たしたと伝わる石が八幡神社の裏手にひっそりと置かれていました。箱根や伊豆には、源氏ゆかりの遺跡が多く残ります。
静岡県東部の中心都市である沼津に入りました。沼津城を中心に発展した城下町ですが、現在は、城の面影もほとんどなく、中央公園に石碑が残るのみです。旧東海道も、城を巻くように海岸沿いへと続いて行きます。
(つづく)
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