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2016年9月30日金曜日

業平になりきられん(7) 



(7) 業平になりきられん!

天理市櫟本町の在原神社から、奈良盆地を横切って生駒山系を越え、八尾市までやってきました。実際に歩いたのは近鉄生駒線の竜田川駅から、同じく近鉄の志貴線服部川駅まででした。デジカメの記録を確認すると、

竜田川駅を出発したのが9時30分ごろ 
十三峠に到着したのが1120分ごろ 
八尾市神立の集落に入ったのが1220分ごろ 
服部川駅に着いたのが13時ごろです。

奈良盆地の天理・平群間を抜きにしても、山を越えて河内の女に逢うまでに約3時間。私の場合は、あっちで寄り道、こっちでシャッターとロスタイムが多いですから、仮に半分としても片道1時間半。うーん、好き好んで河内まで行かなくても、親に財力がある、魅力ある女性なんて大和盆地の中にいくらでもいるのではないかと思ってしまいます。私は業平にはなりきれないなぁというのが歩いての感想です。





そしてもうひとつ。伊勢物語は歌物語です。歌のほうが先にあって、それらしいお話が後から作られた。だから、「筒井筒」のストーリーそのものが実際にあった話と考えないほうがよろしい。いわば作り話に従って「現場」を歩いてみたところで、それは実在しない現場です。
むしろ、実在しないお話を後世の人たちがずっと「温めてきた」ことを思わなければならないと思います。このストーリーのどんなところが魅力だったのだろう。私には残念ながら…まだまだ考え続けないと。

(hill)

2016年9月29日木曜日

業平になりきられん(6) 



(6) 十三峠から神立

平群から登ってきたこの道を十三街道と呼ぶらしいというのは、十三峠の案内板で知りました。近世には大坂から伊勢への参拝者もこのルートを通ったそうです。さらに、業平道とも呼ばれていた。なるほど、100年以上前に建てられた道標が多いわけです。
鶴見緑地も花園ラグビー場もよく見えます。ここからは、大阪平野へ下っていくだけなのですが、奈良県平群町から大阪府八尾市に変わるので、案内板の形式が変わります。下っていくと、水呑地蔵尊があると書かれています。先ほどの福貴畑の農家あたりからは樹木や竹林が覆いとなって、直射光を浴びずに来られました。ここからもしばらくは日陰を歩けそうです。
平群から峠までの道と比べて、峠から八尾側は道が細くて急で、人が歩けるだけの山道です。業平はどんな方法でここまでやってきたのだろうか。天理から十三峠までは馬でも通れるような斜度だったと思いますが、峠から先は難しいのではないか。
水呑地蔵まで下りてきて、やっと人を見かけました。この人たちは大阪側からここまで登ってきた人たちでしょう。見晴らしがよく、吹き上げる風が心地よい。私の学校の同僚のある先生は、高校時代八尾市内の学校に通っていて、マラソンだか登山だかのイベントで、学校から水呑地蔵まで走って上ったのだそうです。斜度はけっこうきつかったはずです。
 



 さらに下ると、お地蔵さんが赤い前掛けをしているのが道沿いに続きます。それもほとんどは二体ずつカップルになっています。お地蔵さんを眺めながら下っていくと、「スケートボード禁止」という札が下げられている。こう書かれているということは、スケートボードで下っていく人がいるという証拠でもあります。なるほど、この「お地蔵街道」(勝手に名付けた)は、コンクリート舗装されていて、斜度があるのでスケートボードで走れるのだなと思いました。
 そうこうしているうちに、山道から集落に着きました。集落の直前に、こんな案内がありました。
君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞ経る
大和の男(在原業平)は幼なじみの女と暮らしていたが、高安の女をみそめ、そのもとに通う。ある時、女が侍女に給仕をさせず、自分でご飯を器に盛ったのを見て、男は心変わりし通わなくなる。それでも女は待ち続け、この歌を詠んだ。謡曲「井筒」「高安」でもよく知られている。
伊勢物語の中では評価がよくない河内の女ですが、なんとなく、河内の女に寄り添った書き方ですねぇ。それに業平は「大和の男」と表現されている。あぁここは河内なんだと思ったことです。木立の陰はここまで続いてくれました。この季節に日陰はありがたかった。
この集落が八尾市神立(こうだち)。河内の女が住んでいたところであると、十三峠の案内には書かれていました。西を向いての緩やかな斜面に集落はあって、こちらも平群同様に花を栽培している農家が多いように見えました。

つづく

(hill)

2016年9月28日水曜日

業平になりきられん(5) 



(5) 平群町

在原神社から竜田川までバイクで走った翌週、山越えを体験してみようと考えたのでした。
今日も天気がよい。近鉄生駒線の竜田川で下車しました。奈良県平群町。ここから山を登って十三峠(じゅうさんとうげ)を越えて、大阪府八尾市まで歩いてみようというのが今日の目標です。


平群(へぐり)。この地名は高校時代に日本史の教科書に登場した記憶があります。ハイキングで歩く人も多いようで、平群町は案内表示があちらこちらにあります。平群町はハイカーのための案内板が充実しているような気がします。平群町観光マップには、「十三街道と業平ロマンの道」なんてのもあって、奈良盆地に長い間住まいしているのに、業平のことを思わなかった自分が情けなく思われます(正確な言い方をするなら、不退寺と業平の関わりは奈良大学名誉教授の本田義寿先生に教わりました)。
歩きながら西を眺めると生駒・信貴山系の山並みが家々の向うに見えます。あれを越えるんだと思うとちょっと気が重い。


畑には菊が栽培されています。菊って秋に咲くものだと思っていましたが、考えてみると、年中手に入りますものね。奈良県のWebサイトには「平群町は夏秋期の生産量が日本一という小菊の大産地」だとあります。平群神社から西宮城の跡、西宮古墳を通って、西へ歩いていきます。この辺りから道は「上り」になっていきます。ただし業平が通った道がどこかは明らかではありません。平群町は丘陵地なんだということが歩いてみてわかりました。なだらかな丘陵にビニールハウスがへばりついているのはぶどう畑。平群町南部は、県下最大のぶどう産地なのだそうです。

シモツケの花、ウツギの花がちょうどいい頃です。花を楽しみながら坂を上っていきます。また、古くからの街道だったらしく、石の道標にもよく出会います。「江戸ヶ崎乙吉」書かれているのは、このあたり出身のお相撲さんの名前らしい。裏に「嘉永五年」と書かれています。1852年のことだそうですから、150年以上前のものですね。
その嘉永五年からどんどん登っていくと、どう見ても街道沿いの茶屋ではなかったの?と思われるような民家が一軒。まだまだ菊畑は続きます。しばらく歩いて、立派な校舎の小学校があったと思ったら、なんと閉校した小学校なのだそうです。校舎のコンクリートもまだ新しい様子なのに、この地域に子供たちがいないのですね。この小学校を過ぎると斜面が急になり、後ろを振り返ると奈良盆地が見下ろせる高さ。幸い、直射日光はまだ少ない。花の咲いた露地物の菊を見つけました。このあたりで東側にある矢田丘陵と同じくらいの高さでしょうか。福貴畑(ふきはた)大石橋で、信貴フラワーロードを越えます。信貴フラワーロードは平群町と隣の三郷町を山の中腹で結ぶ広域農道です。生駒山の東麓を南北に心地よく走れる道路。橋の上からこの道路を眺めていたら、走り屋さんが一台景気よく北を向いて走っていきました。



ここを越えると、道は細くなり、舗装はされているものの傾斜も急になります。道の左右には農家がありますが、農家の人たちはどこも倉庫のようなところで、菊の出荷作業をしている様子です。脇には出荷用の段ボールの箱がたくさん積んであります。でも、今日は日曜日。休日まで出荷作業ご苦労様です。そういえば、登ってくる間に何度か荷台に花を運ぶらしい段ボールを山積みにした軽トラとすれ違いました。ふもとの道の駅で販売するんでしょうね。

農家が途切れるといよいよ道が細くなって、竹藪の中の道。お地蔵さんもあって、古くからの道路であることがわかります。危うく傾いているのもそれらしい。すると簡素な道標があって、右へ行くと大坂、左は平野や住吉らしい。大坂方面を目指して歩きます。コンクリート舗装された竹藪の中の道は、葉っぱで埋もれて、中央にかろうじてコンクリートが見える状態。ハイカーが歩くだけの道になっているのでしょう。ちょっと一休みと、腰を下ろしても竹林の下からは空も見えません。大阪空港に着陸する飛行機が上空を滑っている音が聞こえます。
道は中央が低く、周囲が高く湾曲した形になってきます。実は先週、バイクでここまでやってきたのですが、これ以上は進めないと思って引き返したところ。ところがそのすぐ先には地道ながらフラットな道路になって、さらに数十mで見覚えのある分岐点、生駒山から信貴山まで歩くときに通る地点だったのでした。
そこから十三峠まではもうすぐです。

 つづく

(hill)