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2016年9月29日木曜日

業平になりきられん(6) 



(6) 十三峠から神立

平群から登ってきたこの道を十三街道と呼ぶらしいというのは、十三峠の案内板で知りました。近世には大坂から伊勢への参拝者もこのルートを通ったそうです。さらに、業平道とも呼ばれていた。なるほど、100年以上前に建てられた道標が多いわけです。
鶴見緑地も花園ラグビー場もよく見えます。ここからは、大阪平野へ下っていくだけなのですが、奈良県平群町から大阪府八尾市に変わるので、案内板の形式が変わります。下っていくと、水呑地蔵尊があると書かれています。先ほどの福貴畑の農家あたりからは樹木や竹林が覆いとなって、直射光を浴びずに来られました。ここからもしばらくは日陰を歩けそうです。
平群から峠までの道と比べて、峠から八尾側は道が細くて急で、人が歩けるだけの山道です。業平はどんな方法でここまでやってきたのだろうか。天理から十三峠までは馬でも通れるような斜度だったと思いますが、峠から先は難しいのではないか。
水呑地蔵まで下りてきて、やっと人を見かけました。この人たちは大阪側からここまで登ってきた人たちでしょう。見晴らしがよく、吹き上げる風が心地よい。私の学校の同僚のある先生は、高校時代八尾市内の学校に通っていて、マラソンだか登山だかのイベントで、学校から水呑地蔵まで走って上ったのだそうです。斜度はけっこうきつかったはずです。
 



 さらに下ると、お地蔵さんが赤い前掛けをしているのが道沿いに続きます。それもほとんどは二体ずつカップルになっています。お地蔵さんを眺めながら下っていくと、「スケートボード禁止」という札が下げられている。こう書かれているということは、スケートボードで下っていく人がいるという証拠でもあります。なるほど、この「お地蔵街道」(勝手に名付けた)は、コンクリート舗装されていて、斜度があるのでスケートボードで走れるのだなと思いました。
 そうこうしているうちに、山道から集落に着きました。集落の直前に、こんな案内がありました。
君来むといひし夜ごとに過ぎぬれば頼まぬものの恋ひつつぞ経る
大和の男(在原業平)は幼なじみの女と暮らしていたが、高安の女をみそめ、そのもとに通う。ある時、女が侍女に給仕をさせず、自分でご飯を器に盛ったのを見て、男は心変わりし通わなくなる。それでも女は待ち続け、この歌を詠んだ。謡曲「井筒」「高安」でもよく知られている。
伊勢物語の中では評価がよくない河内の女ですが、なんとなく、河内の女に寄り添った書き方ですねぇ。それに業平は「大和の男」と表現されている。あぁここは河内なんだと思ったことです。木立の陰はここまで続いてくれました。この季節に日陰はありがたかった。
この集落が八尾市神立(こうだち)。河内の女が住んでいたところであると、十三峠の案内には書かれていました。西を向いての緩やかな斜面に集落はあって、こちらも平群同様に花を栽培している農家が多いように見えました。

つづく

(hill)

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