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2022年8月12日金曜日

第27回奈良大学国語教育研究会報告


日時 2022年8月6日(土)13:0017:0

場所 奈良大学 C205教室

 奈良大学を卒業し、教員になった人たちの研究会…ということになっているのですが、この研究会は、幅広くいろいろな人たちが集まってくれる研究会です。大学の国文学科の先生、学生さん、教員以外の卒業生も集まってくれます。ふと気づくと他大学の出身者もいたりして…その幅の広さが、この研究会の強みだと感じています。

一昨年は誌上開催、昨年はリモートによる開催。今年はやっと、卒業生の大学への入構が許されました。対面参加とリモート参加のハイブリッド研究会に、私たちも初挑戦しました。

1.記念講演

        「大学生の方言分布をさぐる-方言の地域差はこれからも存続するか-」

                岸江 信介  先生(奈良大学 教授)


 


2.特別講義

     「国語科で、ぜひやってみたいICT活用&絶対にしてはいけないICT活用」

                      小﨑 誠二  先生(奈良教育大学 准教授)

 

3.交流会 


       「今、学校で起こっていること」

                コーディネーター  大呂 広志(当研究会会長)

   

メモと感想

 おそらく国文学科の人たちが一度は興味をもつであろう方言。岸江先生のご講演は、その方言についてのお話でした。21世紀に入って、加速度的に方言が消滅する方向にある。果たして、これから方言は存続するかという、絶滅の危機にある動植物の話題のようなスタートでした。方言の中でも新方言と呼ばれるカジュアルな言葉遣い、改まった場では用いられない方言のお話です。私たちが方言といって思い浮かぶ「伝統方言」が年速1kmくらいで伝播していくのに比べ、新方言は20年で全国に行き渡るくらいの「俊足」だということでした。その速度で、たとえばチャリやチャリンコが全国に広がっていく。そんな中で方言は今後も残っていくか?大学生の方言を分析すると、50年後も方言は続いているはずというお話でした。地域差がなくならない限り、方言もなくならないのだそうです。講演タイトルに驚き、お話を聞いてちょっと安心したようなことでした。

 いつもなら教育実践交流というコーナーを今回は特別講義に変えて、奈良教育大学の小﨑先生のお話を伺いました。スタートから驚きの連続。多くの講演の場合、スクリーンにスライドが映写されて、手元にスライドの印刷物があって…という形だと思いますが、小﨑先生は、スクリーンにはQRコード。ここから入れば、提示資料は手元のスマホでもタブレットでも見られるので、スクリーンを注視する必要はないとおっしゃる。さらにこの資料は今回の特別講義のために編集されたものではないので、これからも(場所を問わず)見られるし、少しずつアップデートされていく、よければどうぞご覧くださいというわけです。ICTだのGIGAスクールだのと私たち国語科教員に親和性の低い?と思われるものがどんどん押し寄せてくる気がしているのですが、子供たちや世界を取り巻く環境を見せられて、「もうこんな時代ですよ、そんなことを言っていてよいのですか?」と投げかけられた気分です。こうすればいいんだという具体的な方法をいくつもいただいたような気がします。もういちどWeb上の資料をおさらいしながら、夏休み明けの授業を作っていきたいなという気持ちにさせられました。


 交流会も新しい切り口のコーナーです。懇親会が実施できないこともあって、より多くの参加者に発言してもらうことを狙った交流会。今回のテーマは「今、学校で起こっていること」。大呂会長が切り盛り役を務めました。参加者それぞれの現場での思いが出てくる、そのうちギターを抱えた参加者が出てきて歌い始める。岸江先生も小﨑先生も最後までお付き合いいただき、充実した午後となりました。

例年なら、研究会のあと大学の展望ラウンジで懇親会へと続くのですが、コロナ禍を受けて今回懇親会は見送りとなりました。2019年を最後に実施できていない懇親会。来年は乾杯ができることを願っています。

(hill)

 

2022年8月11日木曜日

七里の渡し跡(2)

   

 案内板で、宮の渡し公園に面した道路は付近が整備された後の道路であることがわかったので、それより一本北側の道路を歩いてみました。北の突き当りの一角。何かありそうです。「旧魚半別邸」という文字が気になったので、検索してみると、「魚半」という料亭が昔あって、その建物が現在に残っているものだということでした。洋館と和館、そして、レンガ造りの倉庫があるということですが、そういや、洋館から道路を隔てた南側に古いレンガ造りの蔵のようなものも見かけました。そして先ほど記した、明治29年に料亭として建てられたという、現在高齢者福祉施設になっている料亭というのも、「魚半」。同一の料亭だったわけです。つながった! 結構大きな料亭だったと思われます。

七里の渡しの時代はここから桑名まで27km、4時間の旅。干潮時は沖を走らなければならないので十里になったということですが、それは伊勢湾の、ここから西側がいかに遠浅だったかということでしょうね。木曽三川が土砂を運んでくることが原因でしょうか。

 さすまたの西側のほう、堀川沿いにしばらく歩いてみました。

看板で見つけたのが「ハツリ」という言葉。ずっと昔、高校時代に土木関係のアルバイトをしていたら、ハツリ屋さん(どう表記するものかはわからずじまい)という言葉に出会いました。すでにあるコンクリート等を壊していくことを専門とする、いわゆる解体業者のことでした。いえ、解体業者と括ってしまうと私のイメージとは少し違う。道路工事などで時折見かける、両手でもつ大きなドリルでダダダダと路面をはがしていく感じ、あれが私の中の「ハツル」イメージです。工事関係者の中でも、あまり一般人と接触する機会のないグループのようで、それ以降ハツリ屋さんに出会ったことがありません。また、「ほっぺたをハツル」という使い方も時折聞きます。それで、私は何十年もハツリという言葉は関西地方で使われる、いわゆる方言だと思い込んでいたのですが、少なくとも名古屋市にこの言葉がある。辞典を引いてみたら、「斫り」とか、「斫る」と書くそうで、全国で通用する言葉であることをもこの年でやっと知りました。

堀川をずっと遡っていけば名古屋城。お城をつくるための木材を、堀川を使って運んだということです。それが元になって、堀川沿いには白鳥貯木場という水中貯木場ができた。江戸時代には木曽の材木を筏にして木曽川を下り、伊勢湾を経由してこの貯木場に運んだそうですから、逆七里の渡しという感じでしょうか。

 

今はこの貯木場は埋め立てられて、名古屋国際会議場や名古屋学院大学、白鳥庭園になっています。伊勢湾台風では、貯木場の材木が高潮で流されて、家屋を壊すなどの被害も大きかったと、さきほどの宮の渡し公園の案内板に書かれていました。

もう一度、宮の渡し公園に戻ります。料亭「魚半」の建物は現在、堀川まちネットというNPO法人が拠点としているようです。このNPO法人が、東海道七里の渡し船旅学習会といって、熱田、桑名間の七里の渡しを現代につなげているのです。不定期で七里の渡しが運行されると、どこかで聞いたことがありましたが、それをおこなっているのがここです。現代の七里の渡しに乗ってみたいものです。

 

hill

2022年8月10日水曜日

七里の渡し跡(1)

 

   このブログでは、大坪さんが「東海道を歩く」という連載記事を書いていらっしゃいます。東京、日本橋から京都三条大橋まで歩いたという記録です。それに比べれば、どうということはない記事です。このブログに記事を寄せられた棚橋さんや大坪さんに影響を受け、私も現場を訪れてみるということもするようになりました。今回は、宮宿から船に乗って桑名宿までを結ぶ七里の渡しの、宮宿側の「乗り場」を訪ねてみたという記事です。

6月に、泉鏡花の「歌行燈」に引き寄せられて桑名へ行った記事を書きました。江戸時代、桑名宿へは、そのひとつ江戸寄りの宮宿から七里の渡しが設定されていて、これがオフィシャルルートだったそうです。「とうかいどうごじゅうさんつぎ」という言葉を子供のころから知ってはいましたが、その中に海を通るルートがあるなんて、最近まで知らなかった無知な私。船が到着する桑名側は一応見てきたわけですから、出発する側を見てみたいと思って、近鉄電車に乗って行ってみました。

 
  まずは熱田神宮。東海道41番目の宿が宮宿と呼ばれるのは、すぐ近くに熱田神宮があったからだそうです。いわば宿と神宮はワンセット。しかし、東海道中膝栗毛を読んでみたら、弥次喜多が熱田神宮へ参ったというシーンがありません。なんででしょうね。私が熱田神宮へお参りするのは、2007年8月についで2度目です。佐久間灯篭を見て、大楠を見て、本宮に向かいます。すると、本宮前の広場に人だかりが。

テントが張ってあり、刀剣を作っているようです。草薙神剣の熱田神宮ですからね。もらったパンフレットによれば、鍛錬奉納といって、神前で技術と打ち上げた刀を奉納するという行事だそうです。その様子をたまたま見られたのですが、炭で熱くなった鉄を槌で打つと、見学者にまで火花が飛んでくのがリアルでした。また、時間がたつほどに、「槌うつ響き」が澄んで、きれいになっていくような気がします。


くさなぎ広場へ戻って宮きしめん。おすましきしめんを注文しました。杜のなかできしめんを食べるっていいもんですね。

東海道中膝栗毛の宮宿では、うどんを弥次さんが食べようというシーンが出てきますが、きしめんではなく、うどん。それもわざわざ「名物」のうどんと作者は言わせている。不思議ですね。同じ膝栗毛の池鯉鮒と鳴海の間に、「いもかわ」という麺類が出てきて、これが、平打ちのうどんで、今のきしめんのルーツではないかという話があるそうです。膝栗毛の時代には、「名古屋のきしめん」はまだ確立していなかったということは言えそうです。


  神宮から南へ、どことなくレトロな気分になりながら1kmほど歩くと七里の渡し跡です。ネーミングがややこしいのですが、公園の名前が宮の渡し公園。その中にあるのが七里の渡し跡です。このあたりが東海道最大だったとされる宮宿があったところで、旅籠が約250軒あったらしい。今、宿場の面影はほとんど見ることができません。

現代の宮の渡し公園あたりが、江戸時代には伊勢湾の一番奥であったはずです。つまり、江戸時代にここから南側を眺めれば、伊勢湾が遠くまで眺められたのだろうと想像をします。現代では、南側も埋め立てられており、堀が見えるだけで、この場所から海を感じることはできません。堀川と新堀川に囲まれたところが七里の渡しの渡船場。 

 地図で確認すると、堀のかたちが刺股(さすまた)に似ています。柄の部分が伊勢湾につながる部分。左右に分かれる分岐点が七里の渡しの渡船場。マタの左側(西側)が堀川、右側(東側)が新堀川。そんな感じです。七里の渡しの跡から南側を見ると1kmほど先に東海道新幹線が堀川を渡るのが見えます。七里の渡しの面影は、鐘楼と常夜灯と、桟橋くらい。長崎の医師、シーボルトもここを通って江戸を往復したとか、松尾芭蕉がこの熱田を何度も訪れたとかいう説明書きがありました。

丹羽家住宅と呼ばれる建物があります。今は誰も住んでいない様子でが、江戸時代には脇本陣格の旅籠だったそうです。

 その数軒となりにも歴史ありそうな建物があって、説明書きによると、明治29年に料亭として建てられたものだそうです。江戸時代の建物ではありませんが、江戸時代の様式を模して造られているそうです。現在は、高齢者福祉施設として使われています。

 

hill つづく)