6月に、泉鏡花の「歌行燈」に引き寄せられて桑名へ行った記事を書きました。江戸時代、桑名宿へは、そのひとつ江戸寄りの宮宿から七里の渡しが設定されていて、これがオフィシャルルートだったそうです。「とうかいどうごじゅうさんつぎ」という言葉を子供のころから知ってはいましたが、その中に海を通るルートがあるなんて、最近まで知らなかった無知な私。船が到着する桑名側は一応見てきたわけですから、出発する側を見てみたいと思って、近鉄電車に乗って行ってみました。
まずは熱田神宮。東海道41番目の宿が宮宿と呼ばれるのは、すぐ近くに熱田神宮があったからだそうです。いわば宿と神宮はワンセット。しかし、東海道中膝栗毛を読んでみたら、弥次喜多が熱田神宮へ参ったというシーンがありません。なんででしょうね。私が熱田神宮へお参りするのは、2007年8月についで2度目です。佐久間灯篭を見て、大楠を見て、本宮に向かいます。すると、本宮前の広場に人だかりが。テントが張ってあり、刀剣を作っているようです。草薙神剣の熱田神宮ですからね。もらったパンフレットによれば、鍛錬奉納といって、神前で技術と打ち上げた刀を奉納するという行事だそうです。その様子をたまたま見られたのですが、炭で熱くなった鉄を槌で打つと、見学者にまで火花が飛んでくのがリアルでした。また、時間がたつほどに、「槌うつ響き」が澄んで、きれいになっていくような気がします。
くさなぎ広場へ戻って宮きしめん。おすましきしめんを注文しました。杜のなかできしめんを食べるっていいもんですね。
東海道中膝栗毛の宮宿では、うどんを弥次さんが食べようというシーンが出てきますが、きしめんではなく、うどん。それもわざわざ「名物」のうどんと作者は言わせている。不思議ですね。同じ膝栗毛の池鯉鮒と鳴海の間に、「いもかわ」という麺類が出てきて、これが、平打ちのうどんで、今のきしめんのルーツではないかという話があるそうです。膝栗毛の時代には、「名古屋のきしめん」はまだ確立していなかったということは言えそうです。
神宮から南へ、どことなくレトロな気分になりながら1kmほど歩くと七里の渡し跡です。ネーミングがややこしいのですが、公園の名前が宮の渡し公園。その中にあるのが七里の渡し跡です。このあたりが東海道最大だったとされる宮宿があったところで、旅籠が約250軒あったらしい。今、宿場の面影はほとんど見ることができません。
現代の宮の渡し公園あたりが、江戸時代には伊勢湾の一番奥であったはずです。つまり、江戸時代にここから南側を眺めれば、伊勢湾が遠くまで眺められたのだろうと想像をします。現代では、南側も埋め立てられており、堀が見えるだけで、この場所から海を感じることはできません。堀川と新堀川に囲まれたところが七里の渡しの渡船場。
地図で確認すると、堀のかたちが刺股(さすまた)に似ています。柄の部分が伊勢湾につながる部分。左右に分かれる分岐点が七里の渡しの渡船場。マタの左側(西側)が堀川、右側(東側)が新堀川。そんな感じです。七里の渡しの跡から南側を見ると1kmほど先に東海道新幹線が堀川を渡るのが見えます。七里の渡しの面影は、鐘楼と常夜灯と、桟橋くらい。長崎の医師、シーボルトもここを通って江戸を往復したとか、松尾芭蕉がこの熱田を何度も訪れたとかいう説明書きがありました。
丹羽家住宅と呼ばれる建物があります。今は誰も住んでいない様子でが、江戸時代には脇本陣格の旅籠だったそうです。
その数軒となりにも歴史ありそうな建物があって、説明書きによると、明治29年に料亭として建てられたものだそうです。江戸時代の建物ではありませんが、江戸時代の様式を模して造られているそうです。現在は、高齢者福祉施設として使われています。
(hill つづく)
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