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2016年4月3日日曜日

キンドル版 『知られぬ日本の面影』 小泉八雲



 昭和6年に発行された小泉八雲の『知られぬ日本の面影』のキンドル版。小泉八雲全集のうちの2冊として発行されたもののうち、キンドル復刻版(1)では、上巻の第一章、「私の極東における第一日」から、第七章「神國の首都-松江」まで、200ページ余りが読めるようになっています。
 アマゾンで180円。文庫本としては『新編 日本の面影』の新編集版があるのですが、安さに惹かれてキンドル版を買ってしまいました。なんでこんなに安いのだろうと思いましたが、理由がわかりました。ひとつは昭和6年に書かれたものはすでに著作権の保護期間が切れていること、もうひとつは、コミックのように書籍そのものをスキャンして、画像としての紙面を載せているだけでテキスト化への手間がかかっていないからだと思われます。



  さて、『知られぬ日本の面影』は、小泉八雲が、日本や日本の文化を海外に紹介したものです。それを日本語に翻訳したのが昭和6年ですから、旧字体、歴史的仮名遣いで書かれています(当時としては当たり前のことです)。私たちとしてはどうにも読みづらい印象はぬぐえませんし、読めない字もあって適当に想像しながら読み進めていくしかありませんでした。けれど、それとは別に、日本や日本人をやたらほめまくることが読んでいて面白くない。日本研究家であるなら、 日本や日本人の良い点、悪い点を分析してもらいたいと思うのに、悪い点は出てきません。この違和感。例えば、「第七章 神國の首都-松江」には、宍道湖について次のような記述があります。後半は嫁ケ島についてです。


  幽霊のやうに捕捉し難く、恋愛のやうに深い早朝の色が、睡眠の如くふんわりした水煙に浸ってゐたのが、抜け出でて、明かに蒸気となつて勝つていく奇観絶景!遙かに見渡すと、薄色の霞が湖水の尽端に長く渡ってゐる。-星雲状の長帯だ。それは読者が、日本の昔の絵本に見る通りであつた。
  河霧が消えると、湖上半里足らずの沖に浮べる美しい小島が、際立って現れた-低い、幅の狭い、一帯の地面で、数株の大きな松の蔭に祠がある。末は西洋のと異つて、巨大な、節だらけの、むしやくしやした、捩ぢくれた格好をして、年古りた樫の木のやうに、枝を張つて聳えてゐる。
(注 原文は縦書き、旧字体)

 そんなに褒められてばかりだと、読み手である私はどうも落ち着きが悪い。
 そこで、八雲のこの書物は、日本観光ガイドブックではないかと考えてみました。時代が時代ですから写真もなく文字のみですが、観光ガイドブックだとすれば、ひたすら「いいところです」と書きまくっても不思議ではありません。本屋さんに行けば、国内、国外のガイドブックが山のように売っていますが、マイナス面なんて書かれていません。「地上最後の楽園」なんて言葉がありますが、西洋人に、「日本ってこんなすばらしいところなんだ。みんなも東洋のこの小さな国にやってきたら?私は、何年も住んで日本人の嫁を貰って、仲良く暮らしているよ。どう、羨ましいでしょ。」という本ではなかったのかと考えました。

 ところが、『知られぬ日本の面影』は、部分的にはアマゾンで買わなくても読めるものがあることに気づきました。「第二十六章 日本人の微笑」を読んでみて、また印象が変わりました。ここでは、日本人がなぜ、どんなときにも、死に面してさえも微笑することができるかを、研究者的に?分析しているのです。なかなか奥の深い一冊(もとい、二冊)です。
 その「日本人の微笑」の中で八雲はこんなことを記しています。


 西洋の制度は国の平和や秩序をひどく乱す物である事は眼ある人には見え、耳ある人に聞こえる事である。こんな制度の下に日本を置く事は私共をして心配にたへざらしめる。倫理と宗教が人間の野心に副うやうに作られる主義を基とした制度は当然利己的な人間の欲望と一致して居る。そして自由平等と云ふ近代の信条に含まれたやうな説は社会のきまつた関係を破壊し礼儀礼節を滅却する。(中略)
 古い日本は、物質的には十九世紀の日本よりも劣つてゐたが、道徳的には余程進んでゐたことを忘れてはならない。日本は道徳を合理的にしたあとで、それを本能的にしてゐた。
 (注 原文は縦書き、旧字体)

 八雲は、日本がやがては西洋のように利己的になってしまうことを心配していたのですね。残念ながら日本は

 さだまさし氏によると、『知られぬ日本の面影』の中で、八雲は「日本人が作り上げてきた最高の芸術品は女性である。」と記しているそうです。私はまだその記述には出会えていませんが。

(hill)



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