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2018年6月27日水曜日

東海道を歩く (16) 池鯉鮒~宮    大坪正和

 「都々逸発祥の地」の碑(宮宿)
 
 

池鯉鮒宿 

ここには古い城があったそうだ。
 名物「あんまき」を売るお店。おじさんが店先で作ってくれる。
進むと「境川」。三河と尾張の国境。今川氏の勢力範囲はここまで。やはり今川氏は強大だったことがわかる。
今も道の両側に残る阿野一里塚。
旧街道は中京競馬場のすぐ前を通る。

桶狭間古戦場跡。実は、古戦場跡が二つ存在!ここから一キロほど南にもう一つ。今なお地元では合戦が続いているらしい。
「有松絞り」で有名な有松に入ってきた。ここは宿場ではないが、江戸時代から開けていた職人町であった。いまなおその名残は色濃く残り、情緒ある街並みが残っている。

 

鳴海宿 

昔は海鳴りが聞こえるほど海が近かったのだろう。
女優の杏さんも来店した和菓子屋。名物は「鳴海潟」。手に乗っているのは「利休まんじゅう」。

笠寺の立派な一里塚。

 

宮宿

東海道で最も旅籠の数が多く、人口も一番多かったのが宮宿。現在は、名古屋市熱田区になって、名古屋の繁華街は栄になってしまったが、江戸時代はこの辺りが繁華街だったのかもしれない。宿の手前にあった「呼績」の町。

熱田名物「ひつまぶし」の蓬莱軒本店。午後三時過ぎだというのにまだ行列ができている。

「宮の渡し」に到着。東海道はここから船で渡った。いわゆる「七里の渡し」だ。
宮は熱田神宮のこと。織田信長はここを厚く信仰した。昔はすぐ目の前が海だったのだろう。今は渡し船は年に一回のみ運行しているらしい。ここから桑名は国道一号線を歩く。あくまでも歩いて東海道をつなぐことにした。

 

(つづく)

2018年6月24日日曜日

大学案内ポスター(2)

 いつものように、廊下に貼ってある大学のポスターを眺めてみると、「お代」で学生をひきつけようとするポスターがありましたよ。
美術系のこの大学、ポスターの右隅のほうに書かれてあるのは、授業料の安くなる入試があるという情報。どれどれと見てしまいます。これまでも、入試成績の上位何%の人は、授業料減免という案内を見たことがありますが、この大学では「授業料のお安い」入試枠を作って、他の入試とは区別をしている模様です。なるほど。
しかし、もっと驚いたのは、同じ大学でも学費の安い領域(学科とかコースのようなものでしょう)があるという案内があることです。なぜ驚かなければならないか。入試の成績や枠の違いで入学したとしても、そのことは自分で言いふらさない限り、他人にはわかりません。それに、成績上位で入試をパスしたということは、むしろ自慢したいことかも知れません。しかし、この仕組みは、学費の安い領域に所属する学生ということが、誰にでもわかってしまうわけですから。

なんとかして、ライバルとは違う特徴をこしらえ学生を集めたい大学側の気持ちは理解しますが、「学費が安い」領域には学生が集まってくれるのでしょうか。大学の心配よりも自分の勤務先の心配をしなければならない時代ではありますが。
 
そこへいくと、わが母校のポスターは穏やかなものですね。

 

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2018年6月20日水曜日

東海道を歩く (15) 藤川~岡崎    大坪正和



 藤川宿

国道から離れると突然藤川宿が現れる。ここにはしっかりと木戸口が復元されている。さすがに三河の国、徳川家康ゆかりの寺や神社が多くなってきた。ここのところ、前回歩き終わったところに車を置いて歩き出し、歩き終わったところから電車に乗って車を置いたところまで帰るという方法を繰り返している。この藤川宿、宿場の西終わりに名鉄の駅があり、そのすぐ横が国道1号線の道の駅がある。
  駐車代もかからず、戻ってくるにも都合がいい。当分、使えそうな所だ。

岡崎宿
藤川宿道の駅から出発する。ちょうど霧に包まれて、余計なものが隠され、江戸時代と同じ雰囲気かとも思える。この辺りにも松並木が残り、地元の人たちに大切にされていることがわかる。

しばらく進むと岡崎の入り口になる。言わずと知れた徳川家康のお膝元。旧街道は、岡崎城を守るように幾重にも曲がりくねりながら進んでいる。
  いわゆる、「岡崎の二十七曲がり」と言われて、迷路のようだ。
   案内看板はあるが、なかなか忠実に進むことは難しい。どうも、二か所ぐらい飛ばしてしまったようだ。角々はたどれるが、昔の雰囲気はほとんどない。岡崎城もなかなか見えず、町の外れからほんの少し見えただけだった。
岡崎と言えば「八丁味噌」。
赤みその代表で、かなり保存がきく。戦国時代、この味噌を団子にし、乾燥させたものを戦場で舐めながら戦ったといわれている。現在は大きな二社が「八丁」と言われる場所で製造しており、これ以外は八丁味噌と名乗れないのだそうだ。無料で工場見学もさせてもらえる。黒塀の蔵が続く通りも見事だ。
   岡崎を出ると「池鯉鮒」だ。現在は「知立」。むかし、神社が低いところにあって、池に鯉や鮒が住んでいて、とてもおいしかったことからこの辺りを「池鯉鮒」と書いたのだそうだ。
  たしかに、この辺りは地盤が低そうに見える。稲作よりも綿、大豆の生産が盛んで、味噌や反物の産地として有名になった。それからもう一つ。東海道からは外れるが、ここで有名なのが「カキツバタ」。伊勢物語の「八つ橋」の舞台だ。在原業平たち一行は、この辺りで都のことを思い出してかれいひの上に涙をこぼしたのだと言われている。私はコンビニのおにぎりに汗を落としながら食べた。なぜだかここは少し高台になっている。



(つづく)

2018年6月15日金曜日

大学案内ポスター(1)

長い間、更新できずにいましたこのブログ。頑張って、記事を載せていきたいと思います。 
 中学校にも、大学にもなくて、高校にあるもの。大学案内のポスターもそのうちのひとつでしょう。
 私の勤務する学校には生徒昇降口というのか、生徒玄関というのか、生徒が校舎に出入りするところに、大学の案内のポスターが貼ってあります。この間、ふと目に留まったのがこれです。一目見ただけであの大学とわかってしまうインパクトの強さ。一応、大学名はボカシておきましたが、マグロで有名なあの大学、誰でもわかりますよね。大学の案内ポスターは、多くの場合、校舎の景色だったり、学生の真剣なまなざしだとか、学生が和んでいる風景だったりすると思うのですが、ここに登場するのはお魚の横顔だけ。
 それもかなり茶目っ気のあるマグロくん。文章を読むと、(人々に)「ウケ」たい大学というところから始まって、(入試を)「受けたい」大学になりたいというもの。こんなのがたくさん貼られている大学案内のポスターに一枚混じっていると、目を引きますね。
 みなさんからも記事を寄せていただけるようお願いします。
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2018年6月13日水曜日

東海道を歩く (14) 二川~赤坂    大坪正和







二川宿

国道わきをひたすら歩き、疲れが溜まったころに旧道に入ると突然旧街道の家並が現れる。ほっとすると同時に俄然元気が出てくる。黒塀に連子格子の窓と黒瓦は目にもやさしい。
「味噌溜」は醤油のこと。旧街道のすぐ横を国道1号線、JR東海道線、新幹線が通り、時代が絶えず動いていることが伺えるが、一本脇の旧街道だけは時間が止まったようにひっそりしている。




吉田宿
現在の豊橋市中心だが、ここにも旧東海道の面影は少ない。豊橋は路面電車があり、停留所の名前に名残が見られる。ここは「札木」。


御油宿

豊川を渡って御油宿へ進む。季節は秋。祭りの季節でどこもにぎやかだ。途中の寺には芭蕉の句碑も残る。
珍しい「太鼓屋さん」があった。しばらくガラス越しに店内を見ていた。
東海道を歩いていて気が付くことに、今でも「米屋」、「酒屋」、「糀屋」が多く残ることがある。特に愛知県に入ってからは「味噌」、「醤油」の工場が多くみられる。大豆の生産が盛んだったようだ。
姫街道の道案内があった。「入り鉄砲に出女」に厳しかった東海道を嫌い、浜名湖の北を迂回してでも関所を避けた人たちが通った街道だ。磐田見附宿まで続く。
弥二さん、喜多さんが狐に騙されたところ。今でも立派な松並木が残り、国の天然記念物に指定されている。お昼に「味噌煮込みうどん」を食べた。もちろん、八丁味噌。



赤坂宿
松並木を抜けたところが赤坂宿。以前は御油宿と一体だったようで、ずいぶんにぎわっていたということだ。

東海道を歩こうと思ったきっかけは、この宿場にある「大橋屋」に泊まりたかったから。

残念ながら日本橋を出てすぐ、一昨年の3月で廃業してしまった。江戸時代からの建物をそのままに今日まで営業を続けてきただけに、残念としか言いようがない。

赤坂宿を抜けるとまたしばらくは国道1号線を歩くことになる。この辺りは、東名高速道路、国道1号線、旧東海道、名鉄が寄り添うように通っている狭い谷あいを抜けて行く感じ。数年前までは、東名高速下り線の渋滞名所でもあった。当然、宿場を離れると旧道の面影はなくなってしまう。そんな時に見えてきた名鉄車庫。普段見慣れない車両がたくさん並んでいる。

(つづく)