子どものころ、暮れの数日間、母は台所でおせち料理を作ることに終始していたように思います。台所は湯気に包まれてガスコンロはフルタイム操業、 ストーブまでコンロ代わりに駆り出されて、黒豆が煮えていたような気がします。父は掃除の傍ら、サトイモにかぶれるという母の代わりに皮をむかされていま した。
子どもにとって、おせちは、野菜が大半のたいしてうれしいものではありませんでした。親戚への新年の挨拶に同行しても、我が家と同じよう なお皿が並んでいるだけで、酒を飲む大人たちにとっては適当なアテかもしれませんが、子どもにとっては雑煮を除けば正月の食事は魅力的なものではありませ んでした。そもそもおせちは冷たい。
家族の人数も少なくなり家で食事をする回数が減り、お客もないとなると、おせちも手間をかけて作ってられないというところに至ります。ここ数年はお店で 作ったお重を買ってくることに落ち着いています。今年は芦屋のあるお店に注文をして、大晦日に取りに行きました。元日じゅうに食べてしまうことと注意書き がありますから、量としてもちょうど手頃。便利といえば便利です。
このお店にはご主人様に連れられて、12月にランチを食べに行きましたが、なかなかいいお店ですし、料理もよかったです。
ところで、子どもの頃は祖父が納屋で縄をなって注連縄を作っていました。鏡餅も餅つきのときに作っていましたが、今はどちらも財布から捻り出します。鏡餅 に至っては31日の夕刻にスーパーに行けば、見かけだけはよいニセ鏡餅が売れ残って、あきれるほどの投げ売り価格で売っています。
おせちも鏡餅も注連縄も、恰好だけでも昔からの風習を守っていると評価すべきなのか、形骸化してしまったと嘆くべきかはよくわかりませんが、折り目正しく季節の行事を一つひとつたどっていくことは容易ではありませんね。
(hill)
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