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2015年9月29日火曜日

立待月

14番目の月、そして15番目の月を載せると、どうもその続きをやりたくなります。今夜は立待月。
  いつもより早めに帰宅しました。学校を出るときは、今日はまだ月が出ていないのだということは認識していました。正しいのかどうか、私は、一日たつごとに月の出は約40分ずつ遅くなると認識しています。つまり、おとといと比べると1時間半ほども月の出が遅いはず。
  

 例の、おととい負傷したバイクに乗って自宅に帰ると、東の山のある部分だけがやけに明るい。新しい何かが生まれるときのようなエネルギーを感じま す。もしかしたら、かぐや姫が竹から見つかったときってこんな感じではなかったかと思うような、エネルギーに満ち溢れた山の端。二階の窓から眺めている と、ほどなく月のてっぺんが山から現れました。すぐに、全体が見えるようになり…よし、写真!と思いましたが、低い角度、我が家からの眺めは電線だのなん だのと邪魔者が多い。山から姿を見せたすぐの月を撮りましたが、電線が。ところがPCで写真を見てみると面白いものが写っています。遠くの山の上にある高 圧の送電線と鉄塔が写っていました。おもしろいと思って載せました。

 もう、明日からは月の写真はやめます。

2015年9月28日月曜日

スーパームーン

 昨日は中秋の名月で、今夜はその続きのスーパームーンとやらを眺めなければ。
学校もほどほどに出て、「その場所」を探しました。今日はバイクではありません。クルマにしました。途中、道路沿いに多くの人が立っているのはなん だろうと思うと、斑鳩の、あのお寺の塔越しに月を眺めようという人たちのようでした。びっくりしました。道端にクルマが始終往来する道端に三脚というのも どうかな?安保法案がどうのと日本列島が盛り上がったのはつい最近のことでしたが、わざわざ満月を見るために時間と金をかけて、遠くまでやって来れるというのも、平和な証拠。お芝居やコンサートやお月見に自由に出かけられるというのは大切なことですね。


 私はそこではなく、ある池のほとりにやってきました。ほとんど人はいません。地元の人たちが一組か二組かやってくる程度の静かな池のほとり。大きな 月があって、その光が池に反射して、そして町の灯りがちらちら(あら、堺正章になっちゃった。あれ、いい歌ですねぇ)。私のような汗っかきにはちょうどいい風も吹いてきて、涼しい。今日は飲めません。闇の中で1人、でっかい月を楽しみました。




 さきほど、月はどうなっているかなと、表に出てみました。薄い雲がかかっていて、少しぼんやり。今夜は時間が早いほうが雲のベールに邪魔されないスーパームーンを眺められたようです。
 昨日の写真と比べると、月の輪郭がぼんやりしているのは、薄雲のせいでしょうか。

(hill)

2015年9月27日日曜日

中秋の名月

       
   9月27日(日)。今年は幸いなことにお休みの日が中秋の名月になりました。めでたい。仕事中でないので思う存分に愛でることも撮影 もできます。それに、昨日までは雲が一杯だったのに、今日も昼過ぎまでは雲が一杯だったのに、月が出る頃には東の空に少し雲が残るものの、空にはほとんど 雲がありません。とてもとてもラッキー。

   日暮れごろに、コンデジ(コンパクトデジタルカメラ)を持ってバイクで出かけました。どこで撮影 するというアテもなく、とりあえず走る。月をそれなりの姿(月の模様が見えるような状態)で撮影しようと考えると、月以外のものは画面の中に入っていても 真っ暗で見えません。東の山から上ったころは、まだ空そのものが明るいですから、雲さんも一緒にどうぞと誘ってあげることはできるけれど、空も色をなくし てしまうと雲ですら写りません。それくらい満月は明るいのです。月と並ぶ明るさを持ったものはめったにないということでもあります。

 
 気持ち月が大きいような気がします。ありがたいものだな。走ってきた甲斐があるなとほくそ笑んで道端で撮影。次の場 所に移動しようとバイクにまたがってサイドスタンドを上げて、グローブ(運転用の手袋)はどこだったっけと探すと、バランスを取損ねて、バイクをコカして しまいました。9月でちょうど満4年になるこのバイク。約13000km走りましたが、コカした(コケたに非ず)のは今日が初めて。道端の草むらの中へ沈 んでいったので、たいしてダメージはなかったように思ったのですが、ハンドルについている手首から先を風雨から守るためのプラスティック製のカバーが割れ てしまいました。それに走っていて気づいたのは、ロービームが点灯しないってこと。ハイビームは元気なのに。油断大敵ですね。ちゃんとグローブをはめてか らスタンドを上げれば何でもなかったのに、撮影のことばかりに気を取られて、動作の手順を間違えているわけです。「高い撮影料につくよな」と思いながら場 所移動。

 次の撮影。
    帰りがけにバイク屋へ寄って、カバーを注文。帰宅しました。途中でロービームもなぜだか復活しました。

 帰ったら、私の大切なブレーンが、「月見にでも飲めよ」と先日くれた「篠峯」のワンカップの封を切って、二階から月を愛でながら乾杯。辛口のいい酒です。月見にぴったり。ありがとう。

   飲みながら、一眼レフでまた撮影をして、本日はここまで。
           
暦の上では十五夜ですが、月齢的には明日のほうがまだ大きいらしい。明日も眺めようっと。

(hill)

2015年9月20日日曜日

三輪山に登れるって?       三期生 棚橋 正人



9月12日朝日新聞「be」に「三島が『最期』を始めた地」という記事があった。1970年の割腹自殺の4年前、『豊饒の海』の取材のため三島由紀夫は三輪山を登拝したという。
三輪神社には何度も行ったが、登れるとは知らなかった。
正式には「大和一ノ宮三輪明神大神(おおみわ)神社」、ご神体が三輪山そのものなんだそうだ。バイクをとばして摂社の狭井神社で神官から「入山心得」の説明を受ける。受付最終の2時にぎりぎり間に合った。輪袈裟のような襷「三輪山入山証明」を頂き、首から下げる。下に大きな鈴が付けてあり「ドラえもん」の気分。各自御幣でお祓いをすませて結界をくぐる。
谷川沿いを下を向いて黙々と登っていると、目の前に女性の素足が飛び込んできた。ドキッ!! 山道を裸足で下る? どういうことだ? その後も素足妙齢の婦人が何人も降りていらっしゃる。まさに異次元! ここの神様はきっと男性に違いない。
 
山頂の「奥津いわくら」は神聖な雰囲気。なるほどここはパワースポットに違いない。皆様にお見せしたいのはやまやまなれど、撮影は禁止なのです。あしからず。
往復二時間半なかなかハードです。信仰の山ですので塵ひとつなく、たいへん気持ちのいい時間を過ごせました。
下山後、三輪といえば三輪素麺。いつも行く鳥居前の「森正」でにうめんをいただきました。これと柿の葉ずしの取り合わせが旨い!青空に萩が咲いて奈良は秋の風情ですぞ。
三輪神社は酒造り発祥の地。毎年、1114日には全国の蔵元・杜氏が集まり「酒まつり」が行われるとか、造り酒屋の軒先に吊るされる杉玉はここ三輪神社から送られたものだそうな。美味しいお酒が飲めますよ。ぜひおこしください。


奈良にふらり女性の一人旅でも気楽に泊まれるいい宿ができました。なんと宿主は若い奈良大史学科の卒業生。奈良の文化と歴史を愛する旅人のお役に立ちたいと始めた手作りのゲストハウス「琥珀」です。今はなき、あの「日吉館」を目指すというのですから志は見上げたもんです。ドミトリーは3500円、場所は奈良町、音声館の真正面です。
宿主は「初恋のきた道」の金継ぎ(割れた陶器の修理)ができます。

棚橋からもお知らせが。
スペイン巡礼に続いて朝日新聞に投稿した文章が9月10日版に掲載されました。学校で戦争体験を話して頂いた方を思い出しての文章です。投稿は規定や字数の関係で編集者と数回のやり取りをした後のものです。よければお読みください。

2015年9月19日土曜日

国会前デモ 本多さん思って   棚橋正人

 今日未明、安全保障関連法が参院本会議で可決、成立しました。
 安全保障関連法に関わって、本研究会初代事務局長の棚橋正人さんが書いた文章が、9月10日の朝日新聞の「声」欄に掲載されましたので紹介します。



国会前デモ 本多さん思って
無職 棚橋正人    
(大阪府 63
旧日本陸軍兵士で、「戦争出前噺(ばなし)」と題して自身の戦争体験を語り、5年前に96歳で亡くなった本多立太郎(りゅうたろう)さんのお話を、何回か聞かせて頂いたことがある。私は元中学教員で、学校にも何度かお招きした。
1960年、本多さんは国会へ向かい、市民の一人として安保闘争に参加。デモに子をおぶった母親もいたとお聞きした。孫の寝顔を見て 「孫たちに軍服を着せたくない」 と思い、70歳過ぎから始めた出前噺は1300回を超えた。その本多さんが今の安全保障関連法案を知ったら何というだろうかと考えた。
そんな時、学生団体「SEALDs(シールズ)」の若者たちがデモを始めた。じっとしていられず、大阪での街頭アピールや、京都のデモに行き、830日は国会前へ。55年前の話のように、赤ちゃんをベビーカーに乗せた母親がいた。孫を連れたおじいちゃん、リクルートスーツの若者もいる。SEALDsのかけ声、 「民主主義って何だ?」 の答えはまさしくこれだ。自立した一人一人が自分の意思で立ち上がった。政府はこの事実を重く受け止めなければならない。 小雨の降る国会前でハットをかぶった本多さんを見かけた気がした。1300回の思いは次の世代に引き継がれたと思う。

2015年9月4日金曜日

教科で研修にでかけよう~姫路城~





1 姫路の『皿屋敷』
 私の勤務する学校では、毎年夏休みに国語科で研修に行きます。今回で6回目になります。今年は、新しくなった姫路城を見てみたいと誰かが言い出し、一年で一番暑いであろう、8月上旬の平日に国語科一行で出かけたのでした。
 播州で子ども時代を過ごした者にとっては、「お菊さん」は、播州の人です。姫路城にお菊井戸があり、お菊さんは疑いもせず”播州人”だと思っていました。ところが大人になるにつれ、江戸にも「お菊さん」がいたらしいことに気づきます。二人の「お菊さん」を整理したい。これが今回の私のテーマでした。

 平成の大合併を経て、53万人を抱えることになった姫路市の表玄関、JR姫路駅から大手前通ごしに姫路城の天守閣が見えます。今回の姫路駅の高架化、駅ビルの改築で駅のホームからも見えるようになりました。

(1)やま義

 姫路の名物にあなごが挙げられるなんてことを私が知ったのは、残念ながらそんなに古いことではありません。インターネットが使えるようになるほうが早かった。いつ頃からあなごが名物になったのかもよくは知りません。何度かは姫路であなごを食したことがあるのですが、今回、国語科全員で挑戦したのは、小溝筋(おみぞすじ)にある「やま義」さん。ディープなという形容が一番しっくりくるように思います。
 場末の居酒屋さんのような(失礼!)お店。テーブルが4つ。全部の椅子を埋めても10何席くらいの小さい店です。11時開店の30分前から私たちは店の前で並んで待ちました。聞くところによると、結構な並びができる店らしい。通りからはあなごを焼いているのがガラス越しに見えます。開店の11時。平日だったからか、結局は並んで待ったの私たちだけでした。薄暗い店内。あなごを焼く煙が充満して、狭い店内がかすんでいます。こういう店、好きです。やま義定食をみんなで食べました。蒸しあなごが乗ったあなごめしと、焼きあなごのセット。このお店の定番だそうですが、とってもおいしかった。味がどうこうというモノサシとは別に、ディープな店に入ったというモノサシもあるように思われ、きっとこのお店に入ったことはメンバー全員忘れられないでしょう。

(2)お菊神社

 テーマに沿って、まずお菊神社を訪ねました。姫路市十二所前町に十二所神社があり、その境内にお菊神社があります。北側の国道沿いには、「播州皿屋敷 お菊物語 お菊神社」と大きな看板が掲げられており、祭神は菊姫命だそうです。大切な皿を割ったとされるお菊さんを祭ったらしい。お菊さんは十二所神社へよく参拝したのだそうです。現在では奉納用のお皿まであります。皿に願いを書いて奉納すると霊験があるという話です。皿にちなんで、飲食店関係の人々に需要があるそうです。お菊神社は十二所前線(姫路市街では国道2号線は上下線が分かれ、それぞれ一方通行になります。正確には国道2号線は上り【東行】の一方通行で、下り【西行】は姫路市道十二所前線と呼ばれます)沿いにあり、子どものころから何度も横を通っているはずなのに気づきませんでした。 

(3)姫路城
 周辺は塩町、魚町といった歓楽街。昼間よりも夜がにぎやかな街です。その街を通って姫路城に向かいます。いったん大手前通りまで戻ると、こちらは昼間から観光客でとても賑やかです。国内からのみならず、近隣の国々からのお客様と思われる言葉も行き交います。この日の姫路市の最高気温34.4度。暑い中でもこのたびの改修を終えた世界文化遺産姫路城の人気を伺わせます。また、大河ドラマ「黒田官兵衛」の人気もまだ残っているのかもしれません。
 大天守までぞろぞろと人の後に続いて昇ります。入り込む風が少しずつ変わってくるのが実感できます。最上階である六階では、当然、渋滞が起こります。長壁神社が祭ってあるのですが、スタッフによって、「お参りをする人はこちら、そうでない人は下り口はこちら」と案内され、折角汗をかきかき登ってきたのに落ち着かないのが残念なところ。これでも平日だったので、まだマシなのだと思いました。

(4) お菊井戸

 さて、次はお菊井戸です。大天守を見上げる上山里曲輪(かみやまざとくるわ)にあります。しかし、いつも不思議に思うのは、どんなに憎くても人間一人を井戸に投げ込むとすれば、その井戸は使えなくなるのではないかということ。この井戸は場所からして、普段から使っていたわけではなく、緊急用だったと考えられるそうです。すると、安易に人々が近づいたり、いたずらしたりしないように、井戸にストーリーをくっつけたと考えることもできるという説明には納得します。このお菊井戸。もとからそう呼ばれていたのではなかったようです。もともとの名前は釣瓶取井戸(つるべとりいど)だそうです。お菊井戸と呼ばれるようになったのは、お城が一般に公開されるようになった大正時代とのこと。歌舞伎や講談で「皿屋敷」の知識があった人たちが勝手に「お菊井戸」に昇華?させたわけですね。
 前述のように暑い暑い姫路の一日でした。西の丸も見学しておくべきでしたが、人の多さと暑さで断念しました。また、姫路藩主の下屋敷跡に作られた好古園という庭園も入園したものの、早々と引き上げてしまいました。

2 『播州皿屋敷』と『番町皿屋敷』                   
 (1)姫路か江戸か。整理してみたいと思います。 
ウィキペディアには、「皿屋敷」という項があります。そこを読むと、『竹叟夜話』がベースになって、150年ほどかかって尾がつき鰭がつき、姫路を舞台にして『播州皿屋敷』ができあった。その後、江戸を舞台にした『番町皿屋敷』が出来上がったのではないかと考えられるように思います。でも、どっちが先というような直線的な話でなくて、播州と江戸が絡み合いながら、『播州』と『番町』が完成していったというのが本当のところではないでしょうか。

大坪正和さん提供
  話は神奈川県平塚市まで飛びますが、平塚には番町皿屋敷の「お菊塚」があります。このブログで「東海道を歩く」の連載を続けている大坪さんが送ってくれた写真によると、塚の横にある平塚市教育委員会が作成した案内には、
お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘であった。
お菊が手討ちにされたのは、元文5(1740)年2月のことであった。
と書かれています。この年月が正しいとすれば、史実よりも「播州錦皿九枚館」の上演の方が早いことになります。

(2)全国の皿屋敷
 伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社、2002年)には、皿屋敷伝説は姫路や江戸だけではなく岩手から鹿児島まで、合わせて48ヶ所の伝承地が紹介されているそうです。
 どうして、そんなに広まっていくのか。領主層の移住や親戚関係にともなって広がっていったとみられるもの、また、宗教者の布教活動や流通業者の活動、さらには演劇を通した伝播なども考えられるということです。
 兵庫県内でも、佐用郡佐用町口長谷に「お菊の墓」があるそうですし、尼崎市大物の深正院にも、お菊が投げ込まれたとされる井戸の跡があるということです。
 姫路を訪ねて、少しだけお利口になりました。



(hill)