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2015年9月4日金曜日

教科で研修にでかけよう~姫路城~





1 姫路の『皿屋敷』
 私の勤務する学校では、毎年夏休みに国語科で研修に行きます。今回で6回目になります。今年は、新しくなった姫路城を見てみたいと誰かが言い出し、一年で一番暑いであろう、8月上旬の平日に国語科一行で出かけたのでした。
 播州で子ども時代を過ごした者にとっては、「お菊さん」は、播州の人です。姫路城にお菊井戸があり、お菊さんは疑いもせず”播州人”だと思っていました。ところが大人になるにつれ、江戸にも「お菊さん」がいたらしいことに気づきます。二人の「お菊さん」を整理したい。これが今回の私のテーマでした。

 平成の大合併を経て、53万人を抱えることになった姫路市の表玄関、JR姫路駅から大手前通ごしに姫路城の天守閣が見えます。今回の姫路駅の高架化、駅ビルの改築で駅のホームからも見えるようになりました。

(1)やま義

 姫路の名物にあなごが挙げられるなんてことを私が知ったのは、残念ながらそんなに古いことではありません。インターネットが使えるようになるほうが早かった。いつ頃からあなごが名物になったのかもよくは知りません。何度かは姫路であなごを食したことがあるのですが、今回、国語科全員で挑戦したのは、小溝筋(おみぞすじ)にある「やま義」さん。ディープなという形容が一番しっくりくるように思います。
 場末の居酒屋さんのような(失礼!)お店。テーブルが4つ。全部の椅子を埋めても10何席くらいの小さい店です。11時開店の30分前から私たちは店の前で並んで待ちました。聞くところによると、結構な並びができる店らしい。通りからはあなごを焼いているのがガラス越しに見えます。開店の11時。平日だったからか、結局は並んで待ったの私たちだけでした。薄暗い店内。あなごを焼く煙が充満して、狭い店内がかすんでいます。こういう店、好きです。やま義定食をみんなで食べました。蒸しあなごが乗ったあなごめしと、焼きあなごのセット。このお店の定番だそうですが、とってもおいしかった。味がどうこうというモノサシとは別に、ディープな店に入ったというモノサシもあるように思われ、きっとこのお店に入ったことはメンバー全員忘れられないでしょう。

(2)お菊神社

 テーマに沿って、まずお菊神社を訪ねました。姫路市十二所前町に十二所神社があり、その境内にお菊神社があります。北側の国道沿いには、「播州皿屋敷 お菊物語 お菊神社」と大きな看板が掲げられており、祭神は菊姫命だそうです。大切な皿を割ったとされるお菊さんを祭ったらしい。お菊さんは十二所神社へよく参拝したのだそうです。現在では奉納用のお皿まであります。皿に願いを書いて奉納すると霊験があるという話です。皿にちなんで、飲食店関係の人々に需要があるそうです。お菊神社は十二所前線(姫路市街では国道2号線は上下線が分かれ、それぞれ一方通行になります。正確には国道2号線は上り【東行】の一方通行で、下り【西行】は姫路市道十二所前線と呼ばれます)沿いにあり、子どものころから何度も横を通っているはずなのに気づきませんでした。 

(3)姫路城
 周辺は塩町、魚町といった歓楽街。昼間よりも夜がにぎやかな街です。その街を通って姫路城に向かいます。いったん大手前通りまで戻ると、こちらは昼間から観光客でとても賑やかです。国内からのみならず、近隣の国々からのお客様と思われる言葉も行き交います。この日の姫路市の最高気温34.4度。暑い中でもこのたびの改修を終えた世界文化遺産姫路城の人気を伺わせます。また、大河ドラマ「黒田官兵衛」の人気もまだ残っているのかもしれません。
 大天守までぞろぞろと人の後に続いて昇ります。入り込む風が少しずつ変わってくるのが実感できます。最上階である六階では、当然、渋滞が起こります。長壁神社が祭ってあるのですが、スタッフによって、「お参りをする人はこちら、そうでない人は下り口はこちら」と案内され、折角汗をかきかき登ってきたのに落ち着かないのが残念なところ。これでも平日だったので、まだマシなのだと思いました。

(4) お菊井戸

 さて、次はお菊井戸です。大天守を見上げる上山里曲輪(かみやまざとくるわ)にあります。しかし、いつも不思議に思うのは、どんなに憎くても人間一人を井戸に投げ込むとすれば、その井戸は使えなくなるのではないかということ。この井戸は場所からして、普段から使っていたわけではなく、緊急用だったと考えられるそうです。すると、安易に人々が近づいたり、いたずらしたりしないように、井戸にストーリーをくっつけたと考えることもできるという説明には納得します。このお菊井戸。もとからそう呼ばれていたのではなかったようです。もともとの名前は釣瓶取井戸(つるべとりいど)だそうです。お菊井戸と呼ばれるようになったのは、お城が一般に公開されるようになった大正時代とのこと。歌舞伎や講談で「皿屋敷」の知識があった人たちが勝手に「お菊井戸」に昇華?させたわけですね。
 前述のように暑い暑い姫路の一日でした。西の丸も見学しておくべきでしたが、人の多さと暑さで断念しました。また、姫路藩主の下屋敷跡に作られた好古園という庭園も入園したものの、早々と引き上げてしまいました。

2 『播州皿屋敷』と『番町皿屋敷』                   
 (1)姫路か江戸か。整理してみたいと思います。 
ウィキペディアには、「皿屋敷」という項があります。そこを読むと、『竹叟夜話』がベースになって、150年ほどかかって尾がつき鰭がつき、姫路を舞台にして『播州皿屋敷』ができあった。その後、江戸を舞台にした『番町皿屋敷』が出来上がったのではないかと考えられるように思います。でも、どっちが先というような直線的な話でなくて、播州と江戸が絡み合いながら、『播州』と『番町』が完成していったというのが本当のところではないでしょうか。

大坪正和さん提供
  話は神奈川県平塚市まで飛びますが、平塚には番町皿屋敷の「お菊塚」があります。このブログで「東海道を歩く」の連載を続けている大坪さんが送ってくれた写真によると、塚の横にある平塚市教育委員会が作成した案内には、
お菊は平塚宿役人真壁源右衛門の娘であった。
お菊が手討ちにされたのは、元文5(1740)年2月のことであった。
と書かれています。この年月が正しいとすれば、史実よりも「播州錦皿九枚館」の上演の方が早いことになります。

(2)全国の皿屋敷
 伊藤篤『日本の皿屋敷伝説』(海鳥社、2002年)には、皿屋敷伝説は姫路や江戸だけではなく岩手から鹿児島まで、合わせて48ヶ所の伝承地が紹介されているそうです。
 どうして、そんなに広まっていくのか。領主層の移住や親戚関係にともなって広がっていったとみられるもの、また、宗教者の布教活動や流通業者の活動、さらには演劇を通した伝播なども考えられるということです。
 兵庫県内でも、佐用郡佐用町口長谷に「お菊の墓」があるそうですし、尼崎市大物の深正院にも、お菊が投げ込まれたとされる井戸の跡があるということです。
 姫路を訪ねて、少しだけお利口になりました。



(hill)

2 件のコメント:

  1. hillさん
    こんにちは

    暑さにやられて蒲原で長逗留をきめこんでいる大坪です。
    8月はお世話になりました。

    それにしても「お菊さん」の多いこと。
    そんなにたくさん井戸に放り込まれた「お菊さん」がいたなら、
    ほかの名前の人はどうだったの?とついつい疑問に思う私。
    「お松さん」とか「お梅さん」とかだったら、お皿を割っても笑って見逃してくれたりして。
    「播州」と「番町」のごろ合わせもおもしろい。
    はたして、昔の人は播州が先で、番町が後付なんて知っていたのかしらん。


    返信削除
  2. 大坪さん、コメントありがとうございます。
    それに写真も使わせていただきました。
    どこがスタートかはわかりませんが、やはり、「お菊」「お皿」をキーワードにあちらこちらに伝播していったんでしょうね。
    落語の「皿屋敷」はとびきり明るいですよ。
    (hill)

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