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2019年10月23日水曜日

2017年 スペイン巡礼 北の道 (5)


711028 棚橋正人

65日(月)前半  ウリア(Ulia) ~サンセバスチャン(San Sebastian


  よく眠った。朝、食堂でエフラムにいくつか質問をした。彼によればここはキリスト教に基づくコミューン(共同体)が運営するアルベルゲだそうだ。世界の何か国かに施設があり、新しいコミュニティが今年、京都にもできるという。
彼は日本語の手書きのパンフレットをくれた。そこには「私たちのコミュニティ」へのお誘いと、「イエローデリベーカリー」という天然酵母のパン屋さんが京都太秦(うずまさ)にオープンするとあった。エフラムはぜひ訪ねて行ってくれという。こんなによくしてもらったし、共同体には興味があるので「行ってみる」と返事をした。

朝ご飯をみんなでゆっくりといただく。昨日の苦しい行軍がうそのような穏やかな朝だ。5キロも歩けばバスク料理で有名な「美食の街サンセバスチャン」に着く。ドイツ人男性は、今日は巡礼を休んで、ゆっくり街でバル巡りをするらしい。彼は別のカミーノを歩いた後この「北の道」にやってきた。この骨休めは最初からの計画だそうだ。少し心が動いたが、僕は先に進みたい気持ちのほうを優先した。
一泊二食の料金はドネイション(寄付)という形で好きなだけお金をテーブルの木箱に入れてくださいというシステム。なにがしかを入れさせていただいてさて、雨もあがったことだしそろそろ出発しますか!
4人はそれぞれ自分のペースで出発する。
ありがとう!ほんとうにお世話になりました!

後日、帰国してからイエローデリベーカリーが気になってネットで調べてみる。フランス・イギリス・オーストラリア・アメリカにパン屋さんがあり世界のあちらこちらから集まった人々が共に生活し、一緒に働いて暮らすコミュニティ(共同体)だった。

もう50年も昔の話になるが、1970年前後の安保闘争の時代に日本でもいろんな共同体が話題になった。戦前からある白樺派武者小路実篤の「新しき村」なんていうのもその共同体の一つだ。
1972年、休学中の私はバイトに明け暮れていた。都会で働くのに疲れて北海道の根釧原野の牧場で牛飼いをやってみることにした。お世話になった牧場の近くに「山岸会」という、本部を三重県に置く共同体があった。たまたま大学の仲間の友達の友達(ほとんど知らない)がその北海道別海町の「山岸会」にいるというので、休みの日に訪ねていった。そこはみんなで酪農と農業をしていた。子どもたちは施設のなかの保育園に預けられ、食事は一日二回、食堂で食べていた。お酒も煙草も支給され、休みもあるそうだ。共同体の中ではいっさいお金がいらない「無一文」の生活ができるという。なかなか貴重でおもしろい体験だった。
現在も続いているイスラエルのキブツという共同体はユダヤ教に関係があるし、京都の西田天香が始めた「一燈園」という老舗の共同体は『善の研究』倉田百三に影響を受けており、おそうじのダスキンとつながりがある。
無一文の世界。原始キリスト教の世界というイメージがぼんやりと浮かぶ。
1960年代アメリカではヒッピーがはやり、日本でも都会を捨てて田舎で農業をする若者が現われた。自然農法や有機野菜なんていう流れもこのあたりからだった気がする。

エフラムがくれた日本語のしおりにはキリスト教の教えが書いてあった。
彼との約束が気になっていたが、帰国した後の慌ただしさに紛れて太秦はそのままになっていた。
   そして、2018年の春、陽気の良さにつられて旅の虫がまたもぞもぞし始めた。そこで、山陰・山陽へのJR「青春18きっぷ」を使った「折り畳み自転車旅行」を計画した。そして、その第1日目の目的地を京都太秦にした。京都京阪三条駅で自転車を組み立て、桜が見ごろの京都を疾走する。太秦に着いたのはもう日が暮れかかるころだった。めざすパン屋さんをやっと探し当てたと思ったら、「閉店」の看板!やばい!でもまだ中に片付けをする人の姿が見える。

ご迷惑を承知でカランコロン!とドアベルを鳴らして中に入る。
箒を持った女性に、スペイン巡礼でコミュニティにお世話になったことを告げ、いただいたパンフレットを見せる。
「あっこれ!わたしが書いたものよ」
恵美子さんと署名があるしおりはなんと彼女の手になるものだった!こんなことがあるのですね。カミーノのミラクルは帰ってからも持続するのです。
恵美子さんは少し前までオーストラリアのパン屋さんにいたという。
なんと!すぐに訪ねていても会えなかったのだ。

「まあ座りなさい」
「飲み物はなにがいいですか?」

優しい瞳と声がしみる。
彼女の日本語には少し外国語なまりがあった。僕の会ったエフラムとバウラのこともよく知っていて僕が訪ねたことをたいへん喜んでくれた。
旅の途中だと言うと「これからぜひ亀岡にあるコミュニティに来てください」とお誘いを受けた。ありがたいが今夜の宿は太秦に予約をとっていた。
彼女以外のスタッフは若い女性2人と厨房にいる青年たち。
飲み物を運んでくれた京都弁の女子に出身を聞くとここ太秦だという。
「なんでここに?」と聞くと「ワーキングホリデイでオーストラリアにいたときにおいしいパン屋さんがあって、こんなところで働きたいなぁーと言ったらすぐOKしてもらったから」「えっー!」その後、京都に店を出すことになり、なんと偶然にも彼女の実家近くにこのパン屋ができたそうだ。いったいなんだろうこの展開……?
おいしいパンをいっぱいいただいて再訪を約束して店を出る。

さぁー今夜のお宿、ゲストハウス「BOLA BOLA」(ボラボラ)を探さなくては!
さて、その夜、食べきれないパンをおすそ分けしてあげた宿のおやじから思わぬことを聞いたのだ!お立合い!なんとまぁーすごいのだ!これが…!

  そもそもこの太秦(うずまさ)というところは奈良時代から渡来人の秦氏(はたし)が治めていた土地である。この近くに「養蚕神社」があり、その境内に泉のわく「元糺の池」がある。その中に他では見たことのない「三柱鳥居」というのが建っている。どうやらこの池はキリスト教の洗礼(バプテスマ)を行う池だったらしい。鳥居は三本の柱でできており、これはキリスト教の神の象徴・三位一体(さんみいったい)。父と(神)・子(キリスト)と・精霊を表すのだそうだ。
平安時代の遣唐使がいた国際都市唐の都「長安」には景教(キリスト教)の教会があり、空海もその教えに影響を受けたという話がある。そして、今も高野山のどこかには空海が長安から持ち帰ったという幻の聖書が存在するという。そして、その秦氏はそもそもキリスト教を信仰していたというのだ。

これは面白くなってきた。今の勤め先の近くに光明池というため池があり、ここが奈良時代の光明皇后の出身地だという伝説がある。彼女が病人に施した関わり方が、キリスト教のマザーテレサに通じるという。すると平城京の時代には既に渡来人によってキリスト教の精神が日本に持ち込まれていた可能性がありはしないか…。東洋と西洋の境界は思った以上に絡み合い混ざりあっているのかも知れないのだ。


さて、めざすはスペインきってのリゾート地 サンセバスチャン!
高台から街を見下ろす。クルーザーが停泊し、おしゃれなホテルが林立している。これは高級リゾート地に違いない。生乾きの靴をはいた巡礼者にはちょっと場違いな気もするなぁ。
街へ降りる急坂を、ガイドさんを先頭におしゃれな団体さんが上がってくる。今日は月曜日だがスペインの祝日なのだそうだ。スペイン人の休みの日の朝は遅い。こんな早い時間に外をうろうろしているのは巡礼者と団体の観光客くらいなのだ。

砂浜に沿って広い歩道が確保されている。ジョギングをする人、散歩する人。サーファーもチラホラ。広い川幅に架かる橋の欄干は背の高い巨大ネギ坊主のようだ。下を見ると水量が半端ない。これがバスク地方を流れて大西洋に注ぐウルメア川だ。人通りが増えてくる。旧市街の奥になにやら古めかしい教会が見えてきた。ファサードが美しいサンタマリア教会だった。石畳みの清掃車がエンジンの回転を上げて行き来する。

ここはピンチョス(おつまみ)発祥の地だそうだ。バル(BAR)は喫茶店と居酒屋を兼ねたような店なので朝から開いている。足が自然とそっちに向いていく。通りのバルに入ると見たことのないお洒落なピンチョスが並んでいる。どれもこれもうまそうだがワインをグビリとやってしまうともう歩けない。ここが試案のしどころだ。歩き2日目の遍路は昨日の教訓を思い出し、エビとレンコンの乗ったピンチョスだけを注文してバルを逃れた。

市役所の前を通りかかると、中学生を引率する先生たちに遭遇。やはり、同業者を見ると気になります。「ご苦労様でーす。」海岸沿いの道は気持ちがいい。ドン・キホーテとパンチョの銅像がある。ここはスペインだが俺はペレグリーノ(巡礼者)で観光客ではない。先を急ぐぞ!

しかし、行く手にミラマール宮殿が見えてきた。さすがもとスペイン王室の離宮だった建築物、風格がある。どうやら庭を通り抜けできるらしい。アジサイが美しい。やっぱりちょっと回り道。が、コンチャ湾が見渡せる眺望はやはりすばらしい。さて、ここから今夜の宿のあるオリオまでは約4時間の道のり。天気も上場。さぁー!がんばるぞー!!

(つづく)

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