宇津ノ谷峠というところに、いつか行ってみたいと思っていたのです。「宇津の山にいたりて、わが入らむとする道はいと暗う細きに、つたやかえでは茂り…」この宇津の山が今の宇津ノ谷峠だとされています。
これが難しい峠かと思っていたのに、案外行き来しやすい峠だとわかったら、なおさらに行ってみたいという思いが強くなりました。このことに気づくきっかけをくれたのが、この研究会にも何度か参加してくれた静岡県のOさんでした。
宇津ノ谷峠は、現在国道1号線の岡部バイパスが宇津ノ谷トンネルとしてくぐっています。まずは、このトンネルの東側(静岡口というらしい)の道の駅にクルマを停めて様子伺い。11時ごろですが、今朝歯磨きをしていないことに気づきました。歯ブラシとタオルを持って、昼前に洗面所にいたのは私です。この道の駅の駐車場は利用のものであって、峠を散策する人はここにクルマを停めるな、川沿いの道路に停めよと書かれています。わざわざ書いてあるということは、ここに停めて峠を歩いてみようという連中がそこそこいて、道の駅の利用者に迷惑をかけているという証拠でもありますね。先達があるという妙な安心感に浸りながら、私も道路にクルマを移動して出発。この峠を行き来するには、現国道1号線の宇津ノ谷トンネル(歩道が作られている。クルマの速度と排ガスを考えると歩く気にはならないけれど)を含めていくつもルートがあるらしい。
蔦の細道と呼ばれる山道を歩いてみました。徒歩でしか登れない植林の中の山道です。登山道の登り始めのような道です。植林によって昼間でも薄暗い。苔やシダが多いのは、日差しが届かないからでしょう。おまけに東側斜面ですから、昼くらいには陰ってしまう。日頃から訓練のできていない私の体はすぐに音を上げ、時折立ち止まって休憩。すると20mくらい先にデイパックの女性が一人、歩いています。そんなに苦労をせず歩いているように見えます。後でカメラの記録を見たら、入り口から10分で尾根まで上がっているのですが、とても10分に思えない辛さでした。あかんもんです。
ちらっと富士山が見える! |
こちらは岡部側 |
尾根は少し広くなっていて、先ほどの女性がベンチに腰を下ろしています。背中から「こんにちは」と声をかけたものの、お弁当を広げている様子の女性からは反応なし。
昭和44年に建てられた石碑が一基。東下りに登場する「駿河なる宇津の山べのうつつにも夢にも人にあはぬなりけり」の歌が書かれています。その隣には案内板。東側には富士の山のてっぺんが小さく見えます。
このルートは宇津の山を越える一番古いルートだったのですが、豊臣秀吉が別ルートを通されてからは途絶えていたものを、昭和40年代に地元の人が復活させたということです。とすると、復活と石碑はワンセットのものかもしれませんね。そして、「昔男」は、「時知らぬ 山は富士の嶺 いつとてか 鹿の子まだらに 雪の降るらむ」を詠む場面にたどり着く前に、この尾根から富士の山を見たかもしれないとも想像します。楽しくなってきました。絵巻物では、宇津の山を越える「昔男」は、たいがい馬に乗っていますが、このルートは馬には無理ではないかとも思います。もっとも、『伊勢物語』は歌物語。紀行文とは違いますので、ストーリーとリアルの世界を比較して考えるのはあまり利口なことではありませんね。
ひと休みしたら、今度は岡部口を目指して下りましょう。こちらは西側斜面、日当たりもよい様子で同じ植林の中でも明るく、カラッとした雰囲気です。下方から人の話し声が聞こえます。しばらくしたら、登ってくる3人の男女に会いました。年は私よりも一回りくらい上でしょうか。登りで息もあがるでしょうに、お三方とも律義にマスクをなさっています。「こんにちは」と声をかけて、立ち話が始まりました。
「どこから来られました?」
「私は奈良から」
「いや、出身地じゃなくて、今日はどこから登ってこられたの?」
「はい、静岡口から登ってきました。多分、こちらの斜面よりきついと思いますよ。こちらを上りにされたみなさんは、いいルートを選ばれたと思います」
「奈良はいいとこよね、私たちは果無へ行ったことがあるよ」
「あぁ、十津川の…」
「そんないいとこ(=奈良)からなんで静岡まで?」
「こちらにも素敵なところがたくさんありますから」
では、お気をつけて、と先輩方を見送ったのでありました。「東下り」では、宇津の山で知り合い(見し人なりけり)の修行僧に会ったことになっていますが、私が会った三人はもちろん知り合いではありません。
岡部口側の斜面はかなりの部分が石畳になっています。昭和に入って整備されたものなのか、もともと石畳だったのかわかりませんが、それなりの交通量があったということでしょう。みかん畑があったり、ねこ石と案内された石があったりの道を下ると、山道はすぐに終わり。ここの石碑が興味深い。というのは、「蔦の細道」と彫られた石碑が昭和29年8月に建立されたとあるからです。昭和40年代に地元の人たちによって復活したとどこかに書かれていましたが、その10年以上前に、「蔦の細道」という概念があったことになります。そして昭和48年4月、当時の岡部町教育委員会は「蔦の細道」を町指定史跡に指定します。
ここからは歩きやすい沢沿いの道を下り、すぐに公園(蔦の細道公園という名らしい。)に入ります。そのまま下っていくと、宇津ノ谷トンネルの岡部口。
宇津ノ谷トンネルの岡部口には、ハイカー用に歩道橋が作られています。歩道橋で大動脈を渡り、岡部口側の道の駅まで歩きます。この辺りが岡部町岡部。岡部のどまんなからしい。静岡口の道の駅までは別のルートで帰ろうと、県道208号線を歩き始めました。
静岡ナンバーのVitzが、行き先に迷っているのか県道の真ん中で停まっています。すると、ドライバーのおじさんが私に近づいて、ここに行きたいのだが…と地図を私に差し出すのです。こちらだって、生まれて初めてここを歩いているのです。こちらが道を聞きたいくらいです。おじさんは焼津市の人で、山に関わってこちらに用事があると言います。「1号線ではなく、県道208号線を走れ」と教えられたとも。しかも、道路の真ん中にクルマを停めたまま、地図をもって歩き始めます。おいおいクルマ!と内心でつぶやきながら、私はおじさんの地図を眺めて、この方の行くべき先が分かったのでした。少し戻って1号線の廻沢口交差点を渡ればいいのです。1号線の交差点を右折しても行けるのですが、何しろ流れの速い大動脈です。この方には難しいだろうと、208号からこの交差点を突っ切れとアドバイスされたのでしょう。ところがそのアドバイスが却っておじさんの理解を邪魔したようです。教えてあげました。おじさんはお礼を言ってクルマをバックさせて、行ってしまいました。県道とはいえ、クルマを道路の真ん中に停めてクルマを離れる。なんて長閑なことでしょう。この道路は今でこそ大動脈にその称号を譲ったものの、かつてはトップナンバー国道1号線だったのですから。私もうれしくなります。
県道にはほとんどクルマの通行はありません。下方にある岡部バイパスのスピード、交通量と対照的です。ジーンズの裾に、恐らくタウコギとヌスビトハギでしょう、ひっつき虫がついている。「昔男」も、蔦の細道を歩くとき、狩衣にひっつき虫がついただろうか。いや、「昔男」がこの辺りを通過したのは、夏だったはず。ひっつき虫はないだろう。また、この山道は「つたやかえでは茂り…」とありますが、夏のことであるはず。紅葉はしていないはずです。江戸時代に描かれた深江芦舟の「蔦の細道図屏風」では、秋の風景に描かれているように見えますが、それは本文と合致しないはずです。一方、俵屋宗達の「蔦細道図屏風」はほぼ緑色で、紅葉はしていません。
現代の大動脈、国道1号線宇津ノ谷トンネルを中心にみると、トンネルがくぐっている山の南東側を通るルートが蔦の細道、トンネルの北西側を通るのが江戸時代の東海道、明治以降の車道ということになります。クルマが通るわけですから、傾斜も緩い。
ほどなく明治のトンネルに到着。自動車やバイクは通行禁止です。レンガの装い、車一台が通る幅のトンネルは天井にガス灯を模した電灯。明治時代は、このトンネルで間に合ったのでしょう。
静岡口に出たら、今度は大正のトンネルを歩いてみます。これは自動車もトンネル内ですれ違えるだけの広いトンネルです。現在の県道が通るトンネル。しかし、現代の大動脈を通すには容量が足りない。そこで、岡部バイパスは片側2車線のトンネルを2本ぶち抜き、供用しているのですが、このトンネルが昭和と平成に完成している。ここは、明治、大正、昭和、平成のトンネルがすべて通れる状態で生きている、博物館のようなところなのです。とすると…、令和のトンネルも掘ってもらわねばなりませんね。
静岡側から蔦の細道で岡部側へ、明治のトンネルで静岡側へ戻り、大正のトンネルで再び岡部側へ、昭和、平成のトンネルを歩く勇気はないので、大正のトンネルで静岡側へ戻りました。もう少し時間があれば、旧東海道(トンネルを使わない)で帰ることもできたのですが、今回はパスしました。宇津ノ谷集落の旧東海道を下っていきます。この集落は人々の生活と、旧東海道の雰囲気がうまくマッチしているように思えます。評判らしい蕎麦屋さん、それにこの集落では令和の今でも屋号が生きているようです。
歩いていたら、なんと!知り合いが。
それは、蔦の細道で立ち話をした3人組。私も慌ててマスクをつけ、懐かしい人々とまた立ち話。つまり、私は静岡口からスタートをして、静岡口に戻る。お3人は岡部口をスタートして岡部口に戻るコースだったのです。
「どうでした?蔦の細道の下りはきつかったでしょう」
「その通りでした。」
お互いに「ありがとうございました。お気をつけて」と言い合って遠ざかる。まさか、「東下り」同様に、「見し人」に会えるとは思ってもいませんでした。
集落のはずれ、看板のあるところで、親子連れに道を尋ねられました。
「明治のトンネルへはどう行けばいいのでしょう」今日はよく道を尋ねられる日です。「この道をまっすぐ行けばわかりますよ。どうぞ、お気をつけて」
道の駅に戻り、お土産を買って帰途についたのでした。
(2020年11月訪問 hill)
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