八橋、宇津ノ谷峠、富士山と「東下り」をしたならば、すみだ川まで行かないわけにはいきません。
上野東京ラインの南千住で降りて、白鬚橋を目指しました。「昔男」たちが「限りなく遠くも着にけるかな」と嘆き合ったのが、この辺りだと聞いたものですから。白鬚橋のたもとに荒川区教育委員会が設置した案内板があり、こう書かれています。
橋場の渡し
対岸の墨田区寺島とを結ぶ、約160mの渡しで、「白鬚の渡し」ともいわれていた。
『江戸名所図会』によると。古くは「隅田川の渡し」と呼ばれ、『伊勢物語』の在原業平が渡河した渡しであるとしている。しかし、渡しの位置は、幾度か異動したらしく、はっきりしていない。
大正3年(1914)に白鬚木橋がかけられるまで、多くの人々
に利用された。
正確な位置はわからないけれども、だいたいこの辺りで、東下り一行が、「わび合」ったのでしょう。
さすがに大東京の河川です。しっかりと護岸工事がなされていて、「川のほとり」には嘆くような場所はのこされていない。水辺までが遠いのです。変に嘆こうものなら、世をはかなんだ身投げとまちがえられかねません。ここから、右岸を浅草まで歩いてみました。隅田川は大きな川ではありますが、国を隔てるほどの境界には見えないのが、現代の感覚ではないでしょうか。
白髭橋からほんの少し歩くと石浜神社があります。聖武天皇の時代に創建された古い神社だということです。境内の案内板にはこう書かれています。
当社境内には、文化2年(1805)に建立された都鳥の歌碑があり、碑には波をあしらった渡し舟の図を配し、流れるような見事なかな書きで『伊勢物語』本文の一節も刻まれています。
10世紀後半に完成したとされる『伊勢物語』が19世紀初頭に人々の話題に上がる作品であったらしいことはこれでわかります。
隅田川右岸を浅草まで歩いてみました。白鬚橋の次に現れる橋はX型の桜橋。次が言問橋。「名にし負はばいざ言問はむ都鳥」の言問です。
言問橋は先ほどの白鬚橋の位置からは2kmほど下流にあたります。一行が嘆いた場所はどちら?と考えるのも無駄なことでしょうが、場所の特定よりも、「東下り」が大きなインパクトをもって人々に受け入れられていたということなのでしょう。
(2021年5月訪問 hill 「東下り」おしまい)
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