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2018年8月27日月曜日

第23回奈良大学国語教育研究会報告(2)

《懇親会》
奈良大学本部棟4階 展望ラウンジ 

いつもと同じように、暮れゆく奈良盆地の景色を眺めながら、乾杯です。
参加者みんなが近況を報告するというルールもいつも通り。実は、今回はいつもより参加者が少なかったせいで、コンパクトにまとまった印象の親睦会になりました。卒業生からは思い出話や、現況報告。予定を1時間ほどオーバーしての解散となりました。 
 というわけで、23回目の研究会も無事に終えることができました。参加していただいたみなさん、ありがとうございました。また、開催のために準備をしてきてくださった事務局のみなさん、国文学科の先生方、学生さん、会場を提供いただいた奈良大学、みなさん本当にありがとうございました。

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2018年8月26日日曜日

第23回奈良大学国語教育研究会報告(1)

  奈良大学を卒業し、教員になった人たちの研究会…ということになっているのですが、この研究会は、幅広くいろいろな人たちが集まってくれる研究会です。大学の国文学科の先生、学生さん、教員以外の卒業生も集まってくれます。その幅の広さが、この研究会の強みだと感じています。

《日時 2018811日(土)13:0017:00

《場所 奈良大学 本部棟4階 会議室》

《内容》

 記念講演
   「 近松浄瑠璃の修辞 」 
      奈良大学文学部 国文学科 柏原 卓 先生

 実践報告
   「 通信制で学ぶこと 」
     長尾谷高校なんば分校  樋口  翼 さん

 ワークショップ
   「 モンスターティーチャー ~いい先生、悪い先生~ 」
      クリエイト印刷、白蓮会館奈良学園前支部
                      尾形恭明 さん

《メモと感想》

□記念講演「近松浄瑠璃の修辞」
 柏原先生から、『曽根崎心中』の本文を取り上げて、一語ずつ修辞について解説していただきました。たとえていえば、複雑に組み上げられた機械をひとつずつばらして見せてもらうような感覚です。『曽根崎心中』のテキストがこんなに複雑に修辞がなされているということは知りませんでした。現代人は当然、解説付きでないと理解できないのですが、当時の人々も解説してもらって納得できる人や、何度も聞いて少しずつ修辞を理解していく人もいただろうなという想像をしながら、柏原先生のお話を聞きました。

□教育実践交流「通信制で学ぶこと」
 学生さんも、私たち教員も、もちろん大学の先生方も通信制高校の仕組みをほとんど知りません。まるで学校説明会に参加したような様子です。
通信制で学ぶ生徒の割合が、これからまだ大きくなってくるものと思います。学習の仕組みがまったく違い、スクーリングは1コマ完結でなければなりません。今回のスクーリングの参加者が次回のスクーリングに参加するとは限りませんので、「じゃ、今日はここまで。続きは次回に」はありません。1コマで完結させなければならない仕組みは、全日制や定時制の先生にもおおいに役立つものと思います。今回、通信制からの提案をしていただけたことで、この研究会の柱がまた少し太くなったような気持ちでいます。

□ワークショップ「モンスターティーチャー」
 モンスターペアレンツなんて言葉は広く知られています。しかし、一方で保護者の側から、学校からの理不尽な要求というものを感じられているということがあるとしたら… 
考えさせられるワークショップでした。とてもスリリングな、でも現実味のある話題でした。みなさんの意見を聞きながら、トラブルが起こったときは、まず、正確な情報を確認するというステップを飛ばしてはいけない、そして、顧問や担任から保護者へ、日頃から風通しをよくしておくことの大切さを思いました。生徒(児童)に、ワリを食わせることがあってはいけません。

 

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2018年8月15日水曜日

東海道を歩く (23) 大津~三条大橋    大坪正和

琵琶湖疏水(大津)
 4月9日(日)
 昨晩から雨は激しくなった。天気予報では9時過ぎには止んで晴れ間も見えるという。せっかく花の都を楽しみたくて、旅の最終日をこの日に設定した。今日で足掛け3年丸2年に及んだ東海道の旅も終わる。晴れてほしい。
 
 雨空を見上げながら出発することにする。大津側の琵琶湖疎水の桜が美しい。
 
 東海道から外れて三井寺を参拝する。ここには「三井の晩鍾」がある。境内横には大津絵を売る店があるが、朝早かったので開いていなかった。
 国道1号線に出ると上り坂になり、逢坂山に出る。昔の人は、よくも一晩のうちにこの山を越えて都に帰ったものだ。
 京阪電鉄の踏切を渡ったところにある、これが蝉丸神社
 国道から石段を上る、これも蝉丸神社
 逢坂山のサミットを越えたところにある、これまた蝉丸神社
 

 

 急いで登ろうと思っていたら、蝉丸神社があった。短い峠の途中に3か所ほど蝉丸神社はある。いったい、どこが元か?


 雨は上がった。逢坂の関跡を越えるといよいよ京都に入る。山科で五条の別れを過ぎる。道標には「六条大仏」の文字が残る。秀吉が建立した京都大仏が跡となっても道しるべとなっていたことがわかる。
 山科の繁華街を過ぎたところで、旧東海道は突然民家の路地とみまがう道に入る。車は通れそうもない道を進む。山肌を縫うように進むと、粟田口刑場跡に出る。
 この坂を越えれば蹴上。
 今朝ほど見た琵琶湖疎水の京都口に出た。今や京都有数の花見ポイントである「インクライン」を歩く。正式な東海道からは外れるが、お上りさんとしては歩かないわけにはいかない。
  それにしても日本語が聞こえてこない。

 三条大橋到着。

 出迎えてくれたのは、弥二さん喜多さん。見慣れた景色だったせいか、さしたる感動はなかった。観光客や、待ち合わせの人でごった返していたし、帰りの時間も気になり、そそくさとその場を離れた。この旅で初めて帰路を新幹線にした。静岡までの時間、歩いた風景を思い出しながら窓を眺めていた。


よくもこれだけ歩いたもんだ。

 次はどこを歩こうか。


                             完


 

編集後記
大坪正和さんの「東海道を歩く」。東京、日本橋からの旅の始まりは2015年の315日。記事の掲載開始は同年41日でした。京都、三条大橋に大坪さんが到着したのが201749日。約2年で東海道を歩き切ったことになります。しかし、記事掲載は編集者の都合により、2017314日に第11回(藤枝~金谷)を掲載したあと、第12回(日坂~見付)の掲載(201864日)までに、13か月「足止め」をしてしまうことになりました。結果、「東海道を歩く」シリーズの完結までに3年半近くかかってしまいました。作家の大坪さん、そして読者のみなさんにお詫び申し上げます。
作家である大坪さんには、これに懲りず、新しいシリーズを寄稿していただけますよう、お願いを申し上げます。
 
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「東海道を歩く」 大坪正和   さくいん
23回 大津~三条大橋 (このページ)


2018年8月8日水曜日

東海道を歩く (22) 草津~大津    大坪正和

草津駅前 うばがもちや
 
 草津~京都
 長かった東海道の旅もいよいよ終わる。面白がって歩き出したものの、暑さにめげて、足の痛みに耐えかねて、何度もやめようとも思った。考えようによっては、何年かかってもいつかは着くだろうくらいの気持ちならば、そんなに苦痛にも思わなかったろう。これは性格だから仕方がないが、自分にノルマをかけて呪縛に悩みながら憑かれたように前だけを目指す。次第に楽しいはずの旅が「修行」になってしまう。次の宿場に着くことだけが目標になってしまうのだ。損である。だから、最後ぐらいは楽しんで終えたかった。
石山寺 月見亭


 
 いつのころからか、旅の最後は満開の花を見ながらと決めていた。運よく今年の春は少しだけのんびりとやってきた。年度初めは忙しいが、何とか仕事をやりくりして4月のはじめと宿を取り出発した。
  草津は中山道との分岐点。多くの旅人で賑わったところだ。
 ここには現存する本陣跡としては最大級の「田中本陣」が残る。大名が宿泊した宿だけに、上段の間もありなかなか見ごたえがあった。
 本陣跡からはしっとりとした街並みを進む。琵琶湖の近くには来ているはずなのに、なかなか湖の気配がしてこない。海とは違い、潮風がないからか、鼻が利かないからなのか、湖岸の雰囲気がしてこない。

  煙だし屋根がある家
 草津に入るまで見かけなかった、天井に煙りだしの小屋根を乗せた屋根を見るようになった。家のなかを見てみたくなった。
  瀬田の唐橋に着いた。毎年、琵琶湖マラソンを見ていた景色だ。今渡ってみると大した感慨はないが、なんとなく音の響きが異国情緒をさそう。きっとできたころはハイカラな橋だったのではないか。この辺りまで来るとさすがの「近江の春」を感じさせる朦朧とした雰囲気がある。

石山寺
 せっかくなので、少し寄り道をして石山寺に詣でることにした。 
 
  紫式部が「源氏物語」の着想を得たところとされ、本堂の一角には紫式部の部屋まである。桜がきれいだ。
 大津市内に入り、今井兼平の墓所とある看板を見ながら進むと、近江八景の一つである「粟津の青嵐」あたりで琵琶湖の湖岸がすぐそこに見えてくる。またまた寄り道をして、春霞の琵琶湖を楽しむ。最近では虫が湧いて困っているとか。ニュースになるくらいで、生活にも支障をきたしているらしい。
 
 大津宿にも昔の風情を残す家並がある。街道沿いの亀屋廣房。
 名物は「兼平餅」。なぜ、「義仲餅」ではないのだろうという疑問が湧いてくる。
 大津城が近くに見えるようになってきた。…と思ったのは勘違いで、大津市膳所市民センターの建物上部が天守閣風に作られていたのであった。小田原のういろう屋といい、ここといい、本物のお城より立派なので、惑わされるのであった。それにここは膳所。勘違いするなら、大津城ではなく膳所城でなければならぬ。
 この辺りの家には玄関横に「ばったん」がある。いわゆる、跳ね上げ式イスであり、用事があるときだけ腰掛けになる。よく考えられている。

 義仲寺
 木曽義仲と芭蕉の墓が並んで立つ。
 義仲の墓の横に葬ることは、芭蕉の遺言だったようだ。東海道には芭蕉の句碑がやたらに立っている。誰もがよく知る句から初めて耳にする句までさまざまだ。
 墓の横には「旅に病んで」の辞世の句。芭蕉の人生を追いかけてここまで来た気がする。そういえば、源氏にまつわる史跡もたびたびお目にかかった。
境内のお堂には伊藤若冲の天井画もある。

大津事件
 
 
 明治時代、ロシア皇太子ニコライが襲撃された場所が宿場の中にある。この事件を契機に日露戦争へと突き進んでゆく。

花冷えの大津宿に宿を取る。
 
 
(いよいよ次回が最終回)

 

 

2018年8月1日水曜日

東海道を歩く (21) 土山~草津    大坪正和

 水口宿

 だいぶ日が傾いてきた頃、やっと水口に着いた。亀山から約30キロ。一日の行程としては過去最長の距離を歩いた。
  しかし、まだ今日のうちにどうしても訪ねたいたいところがある。大岡寺(たいこうじ)。私が東海道を歩こうと決めた理由の一つが、赤坂宿大橋屋に泊まりたかったこと。これは夢かなわず。もう一つが大岡寺で芭蕉の句碑を見ること。
 今までにも多くの芭蕉句碑はあったが、この水口で詠んだ命二つ なかに活きたる 桜かな」の句にふれたかった。「野ざらし紀行」に、20年ぶりに故郷の友人の服部土芳と再会した時の句だ。命永らえて二人またまみえることができた喜びを詠っている。二人の間には桜が生き生きと咲いている。桜には少し早かったし、20年ぶりの友人もいなかったが、こうして大学卒業後も縁切れることなく拙い文を載せてくれている研究会に感謝するとともに、残り僅かになった教員生活の中で送り出してきた教え子たちの行く末に幸多かれとねがうばかりだ。そんな感情が今回の旅の出発に背中を押した。この句は少し感傷的だが、ずっと大切にしてきた句だ。
 蛇足ながら、芭蕉は西行にあこがれていた。小夜の中山にあった西行の年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり佐夜の中山へのオマージュであることは言うまでもない。
 
 水口宿は「三筋の街道」が特徴的だ。街並みもなんともしっとりとしている。三筋のはじまりと終わりにはからくり時計がある。
 6時過ぎにようやく宿に到着した。



 翌日7時から歩き出した。朝日に照らされて水口の家並が美しい。
 水口城下の曲がり角にある力石が大切にされていた。


 宿場を出ると、かなり遠くまで見通せるまっすぐな道になった。路傍のお地蔵さんも春めいた陽気に微笑んでいるよう。
  野洲川にあった横田の渡し跡。三雲城跡は猿飛佐助縁の城。
  この辺りは天井川がいくつかあり、隧道をくぐって街道が進む。立派な家が並ぶ。

 

石部宿

  弁柄格子の家が多く立ち並んでいる。京都が近づいている。田楽茶屋跡。
 この時期に田が青々としているのは麦畑。ほとんど途切れることなく屋号を掲げた家が続く。古い酒屋さんも風情がある。家康も飲んだと言われる和中散本舗。 
 
  近江富士がきれいに見える。肩かえの松。手原にあった神社の石碑。この辺りは栗東になる。馬の町だ。
  東経136度の子午線がこんなところを通っていた。それにしても立派なお屋敷が並ぶ。ヒョウタン屋。田楽屋。粋な酒屋。


 
草津宿
 草津に着いた。草津は東海道と中山道の分岐点として栄えた。「草津」という名も、古くから宿駅で使用した牛馬の生産地で、牧草地が広がっていたところから来たのではないか。だとすれば、あながち中央競馬会の栗東トレセンが近いのも偶然ではないのかもしれない。途中に使役牛馬の養老施設跡という碑も見かけた。街道とともに、牛馬とともに生きてきた町ではないのか。日は高いが2日間で50kmを歩いた。少し足も痛くなってきた。
後は「近江の春」をゆるゆると進むとして、今日はここまで。    

 

(つづく)